栗生沢なんでも

2012年03月02日

 栃木の板室温泉から那須高原に抜ける道沿いに会津中街道の跡を示すかのように道標碑が建っていた。
「右;会津街道、左;ゆもと道」と刻まれていて、これは元禄八年(1695年)に開設された会津中街道の道しるべとして天保七年(1836年)に建てられたもの。2mほどの高さがあって他には類を見ない立派な石碑だ。
これと同じものが田島と栗生沢の分岐点に建てられていたそうだ。左;三斗小屋、右;日光へと書いてあったかどうか、不詳だが、道標の石碑が有ったことは確かである。残念ながら建築資材として盗失したようだ。

(注釈)会津中街道とは、栗生沢を通って、三斗小屋経由で、板室へ抜け、関東に行く街道を指す。幕末から明治初期にかけて往来が活発だった。村中が、同じ湯田を名乗っていたため、この機に屋号でお互いを呼ぶようになった。(例、私の場合は、橋本屋なのだが、通称「はしっぱた」と呼ばれていた。)


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美しき冬の栗生沢村(平成24年1月撮影)





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2011年06月16日

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とや山と滝沢山
 
学校からの下校の道すがら、仰いだ山々、正面は「とやま」と「たきざ」そして右手には「あせがち山」と、この3つの山が私を育んでくjれた。
 とやまの裾ではスキーを、たきざの河原ではイワナ取りを、そして、あせがちやまではワラビ取りをと。
 この写真の光景を幾百度、幾千度となく脳裏に刻み込んだものだ。眩いばかりの初夏のもと、耳をつんざく蝉の声、そして蛙の鳴き声、校庭から遊び疲れて足を引きずりながらの家路、そして吹雪の中での下校……。まさしく「うさぎ追いし あの山 こぶな釣りし かの
川 夢は 今も めぐりて」だな。
<平成23年6月>



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2011年02月26日

img-Y01214003-0001南会津町(田島)教育委員会発行の250ページからなる冊子だ。著者は石川純一郎さんだ、うれしいね〜。村出身者ならば必ず1冊は買い求めておくべし。自分のルーツ・古里の資料編だ。

 先祖は何故に、この地に住み着き、またどのような暮らしをしてきたのか等、想像がかき立てられ一気に読んでしまった。

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本文中で興味のあったところを自分の記憶で憶測してみた。
*親族呼称
ジーヤ、バーヤ、トーチャン、カーチャン、オンツァマ、オバサ、アンツァ、アネ、アネサ、
*親族名称
ゴテ、カカァ、セナ、シャデ、コメラ、バッチ
*人称=相手の呼称
(目上)オメー、オメラ、(目下)ニシ、ニシラ、
<会話例>
「ニシ、誰だ?」(あなた、誰?)
「オレ、孝次だ」(俺、孝次)
「なぁーんだ、孝次アンツァが」(なんだ、孝次兄か)
「ところで、オンツァマは今何やってるんだ?」(ところで、おじさんは今何してる?)
「オンツァマ?あぁジーヤのことか」(おじさん?あぁ爺さんのことか」
という感じです。

栗生沢の代表的な方言には以下のものが有ります。
◎ ニシ(おまえ、あなた)   ハイット(ごめんください)
ジャンボくった(葬式になった) カビダレモチ(川で転ぶこと)  コイ(疲れた)  ケロ(頂戴) 

<生活編>
 山の幸に恵まれていたようだ。畑は女に任せ、男は山仕事が主。水田が始まったのは用水を村の中に引いた明治23年から。
炭焼きと狩猟が盛んで、特に熊ブチは有名だったらしい。そういえば子供の頃、田島町にでると、よく「栗生沢の熊」と馬鹿にされたものだった。それが何故だったのか、この本を読んで納得。そうだったんだ。

 熊撃ちをしていたのは湯田茂、湯田友治、湯田元、湯田喜志、湯田清八とある。湯田元は私の祖父(じーや)で明治の人だ。そう言えば実家には火縄銃と熊用の槍2丁が有った。鹿の角で飾ってあったから良く覚えている。

 熊の猟法は、その祖父(じーや)から「冬、熊(シシ)が寝でいる穴の入口を太い棒で横に遮ったあと、棒で穴を突っつくんだ。そうすっと熊が起きてでてくんだげんじょ、入り口に横棒があるから棒をたぐって仁王立ちとなっちまうんだ。その時、この槍で月の輪をめがけて刺し、仕留めるんだ」と、こんなかんじで聞いていた。「おっかなぐねぃのが?」と聞くと「おっかねぃ、よりも面白い」と話してくれたものだ。

 冬の動物性タンパク質はこの熊肉で補給。熊肉の食感は、堅く、噛み切れず、油が多く、そして臭いのだ。この臭いのため犬は唸るだけで食べない。熊の胆は高価、一個、当時6万円で売り買いされていた記憶がある。今の金額で換算すると50〜60万円相当額だ。冬の貴重な現金収入、皆で山分けしていたようだ。


夢追人yudakoji28 at 08:57コメント(2)トラックバック(0) 

2010年10月12日

やっと、やっと、というか、ついにGoogle map に栗生沢が出た。
待望の空中写真だ。故郷の家は!畑は!田んぼは!山は!
これまた懐かしく、想いが、ノスタルジー。
一軒一軒の家の名前が言えたら、記憶はまだ健在なり。img-X08133148-0001    

夢追人yudakoji28 at 15:38コメント(3)トラックバック(0) 

2008年11月12日

dbc8a2fa.jpg     田島町立栗生沢小学校

 撮影は翌年の春3月のころ。昭和36年に工事が着工し昭和38年完成。(写真は新築当時なので、真新しい。45年後の今はボロボロ)。昭和40年4月、田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立。

 

昭和40年に第1回目の卒業生を送る。その卒業生の写真がこれである。  

卒業式<卒業名簿>湯田信隆、湯田吉美、湯田文和、湯田孝次、湯田輝義(男5人)、湯田幸恵、相原富子、伊野瀬幸子、相原ひろの、佐藤セイ子、湯田ノブイ、湯田千歳、湯田友子、湯田孝子、星年子(女10人)

=【合計15人 15人中10人が湯田の姓】=

山奥に閉ざされた栗生沢村の明るい未来を示唆した卒業式に村を挙げての行事となった。校歌も、この時発表され、晴れがましく歌い上げられた。

栗生沢小学校校歌(山田直美先生;平野増雄先生作詞)

一、遙かに仰ぐ男鹿岳の    峰は希望の朝ぼらけ

   みんなの笑顔美しく    光る言葉に呼びかける

二、清く流れるせせらぎに   声はずませて遊ぶとき

   みんなの歌はほがらかに  響く瀬音に呼びかける

三、長い歴史を育んで     遠く伝わる三ツ獅子に

   みんなの夢はたくましく  輝く未来に呼びかける

涙しながら歌ったものだ。今、書いている最中にも頬をつたわつものがある。苦労して、苦労して、ここまで来たんだという万感の思いが子供心に感じ取っていたのだろう。この栗生沢小学校として独立した際の学童在籍数は全校で104人と記憶している。今は残念ながら廃校となってしまった。

山田先生と平野先生が、毎日毎日黒板に詩を書いては消しての繰り返し。このとき知った詩の作り方、7・5調での言葉組み合わせというものを。

小学校1・2・3年間は村中央にある分校で複式学級。今のバス駐車場だ。木造2階建校舎。冬になると雪が深くなるため先生方は村に分宿。私の家では毎年2人の先生が宿泊していた。本当に雪が深かくて家の軒先まで積もるのだ。およそ2m位となるのかな。暖房は薪ストーブ。お昼の弁当をこれで暖めるのだが4時間目の授業となると弁当に入っているタクアンの匂いで教室が充満する。冬の食料はタクアンと梅干しのみ、どの家も貧しかったのだ。こうして長い冬を越していた。春が本当に待ち遠しかった。

3年生の時になると、いよいよ新校舎の建築が始まり、建築造成中の新校舎をよく写生に行ったものだ。4年生の時、引っ越し。しかし校舎の落成はなったものの校庭ができていない。予算が無いという。それからの1年間は、全校生で校庭整備、石拾いに費やされた。校庭を周囲する丘は、この時拾われた石が集積されてできたもの、5年生の時、やっと使用に耐えられるようになった。あわせて脱脂粉乳のミルクが給食され栄養補給が成されるようになってきたのだ。そして、この年が田島小学校での最後の卒業式となる。栗生沢分校在校生の代表として私が田島小学校までツギハギの服を着て、恥ずかしい想いをしながら出席したから良く覚えている。特に私の家も貧しかったのだ。一人で初めて村を出た日、それは田島町は都会だったのだ。今となっては嘘のような話だね

6年生になると村にもTVが普及しだし、私の文明開化が一気に訪れる。そして晴れて栗生沢小学校独立第1回卒業式を迎えたのであった。。



夢追人yudakoji28 at 10:17コメント(6)トラックバック(0) 
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栗生沢 三匹獅子(三ツ獅子)前庭の舞
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