2008年11月10日

(歴史)

1590年、豊臣政権下に近江出身の蒲生氏郷が藩主として会津に赴任。このとき幸福の言葉「松と鶴」が地名に用いられ会津若松と鶴ガ城の誕生となった。藩は盛況を極め会津100万石の大藩となる。しかし実はこの蒲生氏郷、キリシタン大名だったのだ。蒲生氏郷の姉が南山鴫山城(田島)の城代であったがためキリスト信仰は南会津、特に栗生沢と水無等に多く深くの信仰していった。

1614年、徳川幕府はキリシタン禁止令を出しこれを迫害。栗生沢は村全体で転宗・改宗としながらも実は隠れキリシタン部落となっていた。資料「転切支丹類族書上帳」には栗生沢、水無の村民が多く記帳されている。

1637年、島原の乱が起き、そこから逃亡してきた家司馬将なる人物と水無のキリシタンの長である横沢丹波の家で外国人宣教師ともども捕らえられ、逆さ磔・斬首によって殺された。(記録書「会津事始」より)

(湯田の姓についての考証)

隠れキリシタン村「栗生沢」という下地のもと、湯田の名は隠れキリシタンとなるために、あえてイエスの裏切り者「ユダ」を名乗ったと思われる。なぜならキリシタンの痕跡のあるところには必ずある名字「湯田」なのです。明治6年に施行された「名字苗字必唱令」より、遙か昔から、湯田の姓は残されてはいる。古くは慶長8年(1603)の「言上之事」という願書には湯田左近という名が代表で記載されてある書がある。時期的には蒲生氏郷時代、田島城代の小倉作左衛門に提出された書である。また文化3年(1806)湯田右衛門なる板碑も峠の祠に現存し、村の大山神社には幾枚かの板碑が納められている。名字を持つことが許されていない時代にです。さらに幕末の戊辰戦争には村長;湯田久左衛門他、湯田宇平、湯田佐吉、湯田仲吉、湯田百太郎なる名前が上がっている。これを見るに村人全員が湯田を名乗っていたようだ。

隠れキリシタンを今に伝える事例としては、村にはお寺が無いということ。栗生沢と水無にだけお寺が無いのだ。(水無では田圃の中からマリア観音と見受けられる石像が近年、発見された。)それゆえ、9月23日のお彼岸という行事がこの村には今でも無いのだ。さらに、部落の紋所は皆、十字架を思わせる角立ち四つ目のマーク、この紋所は薩摩の島津藩と同じだが栗生沢独自の物。村出身者なら誰でも知っている紋所です。

キリシタン禁制の江戸時代に苗字を持つことが許されていたのは村長だけ、そしてキリシタン弾圧から身を守るために新約聖書の裏切り者とされているユダをあえて名乗り「転び切支丹」に見せかけたようだ。以来、村全体が湯田一族として今日まで、この苗字を存続させてきた。

 

 



夢追人yudakoji28 at 10:46コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事  

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