2008年11月12日

dbc8a2fa.jpg     田島町立栗生沢小学校

 撮影は翌年の春3月のころ。昭和36年に工事が着工し昭和38年完成。(写真は新築当時なので、真新しい。45年後の今はボロボロ)。昭和40年4月、田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立。

 

昭和40年に第1回目の卒業生を送る。その卒業生の写真がこれである。  

卒業式<卒業名簿>湯田信隆、湯田吉美、湯田文和、湯田孝次、湯田輝義(男5人)、湯田幸恵、相原富子、伊野瀬幸子、相原ひろの、佐藤セイ子、湯田ノブイ、湯田千歳、湯田友子、湯田孝子、星年子(女10人)

=【合計15人 15人中10人が湯田の姓】=

山奥に閉ざされた栗生沢村の明るい未来を示唆した卒業式に村を挙げての行事となった。校歌も、この時発表され、晴れがましく歌い上げられた。

栗生沢小学校校歌(山田直美先生;平野増雄先生作詞)

一、遙かに仰ぐ男鹿岳の    峰は希望の朝ぼらけ

   みんなの笑顔美しく    光る言葉に呼びかける

二、清く流れるせせらぎに   声はずませて遊ぶとき

   みんなの歌はほがらかに  響く瀬音に呼びかける

三、長い歴史を育んで     遠く伝わる三ツ獅子に

   みんなの夢はたくましく  輝く未来に呼びかける

涙しながら歌ったものだ。今、書いている最中にも頬をつたわつものがある。苦労して、苦労して、ここまで来たんだという万感の思いが子供心に感じ取っていたのだろう。この栗生沢小学校として独立した際の学童在籍数は全校で104人と記憶している。今は残念ながら廃校となってしまった。

山田先生と平野先生が、毎日毎日黒板に詩を書いては消しての繰り返し。このとき知った詩の作り方、7・5調での言葉組み合わせというものを。

小学校1・2・3年間は村中央にある分校で複式学級。今のバス駐車場だ。木造2階建校舎。冬になると雪が深くなるため先生方は村に分宿。私の家では毎年2人の先生が宿泊していた。本当に雪が深かくて家の軒先まで積もるのだ。およそ2m位となるのかな。暖房は薪ストーブ。お昼の弁当をこれで暖めるのだが4時間目の授業となると弁当に入っているタクアンの匂いで教室が充満する。冬の食料はタクアンと梅干しのみ、どの家も貧しかったのだ。こうして長い冬を越していた。春が本当に待ち遠しかった。

3年生の時になると、いよいよ新校舎の建築が始まり、建築造成中の新校舎をよく写生に行ったものだ。4年生の時、引っ越し。しかし校舎の落成はなったものの校庭ができていない。予算が無いという。それからの1年間は、全校生で校庭整備、石拾いに費やされた。校庭を周囲する丘は、この時拾われた石が集積されてできたもの、5年生の時、やっと使用に耐えられるようになった。あわせて脱脂粉乳のミルクが給食され栄養補給が成されるようになってきたのだ。そして、この年が田島小学校での最後の卒業式となる。栗生沢分校在校生の代表として私が田島小学校までツギハギの服を着て、恥ずかしい想いをしながら出席したから良く覚えている。特に私の家も貧しかったのだ。一人で初めて村を出た日、それは田島町は都会だったのだ。今となっては嘘のような話だね

6年生になると村にもTVが普及しだし、私の文明開化が一気に訪れる。そして晴れて栗生沢小学校独立第1回卒業式を迎えたのであった。。



yudakoji28 at 10:17コメント(6)トラックバック(0)栗生沢なんでも 

2008年11月11日

11月4日あまりにも天気が良くて爽快な秋空が、お袋とのドライブを誘った。仕事を中止して、お昼頃、出発。塩原を抜けたあたりから車のバーッテリーに異変が、走行には別段影響がないだろうとそのまま故郷路へ、三依〜横山あたりにさしかかったところでアラーム音が、ヤバイと思いながらも、そのまま走行。県境の山王トンネルでライトを付けた瞬間、アラーム音がけたたましく鳴り出した。アクセルを踏んでも出力が弱い。たまたま下り道だったか良かったもの、そのまま道まかせに走行、トンネルを無事抜けてライトを消したが、すでにエンジン出力は無くなっていた。しばらくその状態で道の駅まで、さすがにここで走行を止めようと思いハンドルを道の駅に切ったとたんエンジン停止。しかし慣性でそのまま駐車場へ無事駐車。「まぁ、こんなこともあろうよ」ってな感じでそこで一服。周囲を見ると紺碧の青空と雄大な紅葉に圧倒され、感激。一杯の蕎麦を食べ、タクシーを呼んで栗生沢の実家へ。誰もいない。迎えは夜になるみたいだから今日はゆっくり村を散策しようと、「せっかく」を有意義に味わった。村の中を歩くも人っ子一人見受けられない。ただシーンと静まりかえっている。稲刈りも終わり、ただ冬の到来を待つだけの深まりゆく秋のつかの間。聞こえるのは「シーン」という音だけ。本当にシーンという音はあるんだなぁと実感する。一通り村を回りながら、少々風情の変わったところを見て過去の幼少年期を懐古する。自分だけの持つ特別な想いに郷里愛がひたされる。家に戻るとお袋が畑仕事から帰っていた。畑の土手に座りながら長話。これがまた良い。お袋独特のイントネーションと言い回しに気持ちが安らぎ癒される。もっともこの噺調子で育ったのだから当たり前か。夜、兄貴が帰宅。久しぶりの兄弟話しに花が咲いたものだ。今年一番の幸福なひとときだったような日でした。車の故障に感謝です。

 



yudakoji28 at 08:51コメント(57)トラックバック(0)栗生沢帰省 

2008年11月10日

(歴史)

1590年、豊臣政権下に近江出身の蒲生氏郷が藩主として会津に赴任。このとき幸福の言葉「松と鶴」が地名に用いられ会津若松と鶴ガ城の誕生となった。藩は盛況を極め会津100万石の大藩となる。しかし実はこの蒲生氏郷、キリシタン大名だったのだ。蒲生氏郷の姉が南山鴫山城(田島)の城代であったがためキリスト信仰は南会津、特に栗生沢と水無等に多く深くの信仰していった。

1614年、徳川幕府はキリシタン禁止令を出しこれを迫害。栗生沢は村全体で転宗・改宗としながらも実は隠れキリシタン部落となっていた。資料「転切支丹類族書上帳」には栗生沢、水無の村民が多く記帳されている。

1637年、島原の乱が起き、そこから逃亡してきた家司馬将なる人物と水無のキリシタンの長である横沢丹波の家で外国人宣教師ともども捕らえられ、逆さ磔・斬首によって殺された。(記録書「会津事始」より)

(湯田の姓についての考証)

隠れキリシタン村「栗生沢」という下地のもと、湯田の名は隠れキリシタンとなるために、あえてイエスの裏切り者「ユダ」を名乗ったと思われる。なぜならキリシタンの痕跡のあるところには必ずある名字「湯田」なのです。明治6年に施行された「名字苗字必唱令」より、遙か昔から、湯田の姓は残されてはいる。古くは慶長8年(1603)の「言上之事」という願書には湯田左近という名が代表で記載されてある書がある。時期的には蒲生氏郷時代、田島城代の小倉作左衛門に提出された書である。また文化3年(1806)湯田右衛門なる板碑も峠の祠に現存し、村の大山神社には幾枚かの板碑が納められている。名字を持つことが許されていない時代にです。さらに幕末の戊辰戦争には村長;湯田久左衛門他、湯田宇平、湯田佐吉、湯田仲吉、湯田百太郎なる名前が上がっている。これを見るに村人全員が湯田を名乗っていたようだ。

隠れキリシタンを今に伝える事例としては、村にはお寺が無いということ。栗生沢と水無にだけお寺が無いのだ。(水無では田圃の中からマリア観音と見受けられる石像が近年、発見された。)それゆえ、9月23日のお彼岸という行事がこの村には今でも無いのだ。さらに、部落の紋所は皆、十字架を思わせる角立ち四つ目のマーク、この紋所は薩摩の島津藩と同じだが栗生沢独自の物。村出身者なら誰でも知っている紋所です。

キリシタン禁制の江戸時代に苗字を持つことが許されていたのは村長だけ、そしてキリシタン弾圧から身を守るために新約聖書の裏切り者とされているユダをあえて名乗り「転び切支丹」に見せかけたようだ。以来、村全体が湯田一族として今日まで、この苗字を存続させてきた。

 

 



yudakoji28 at 10:46コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2008年11月06日

会津公の写真  新居引っ越しにともなっって古物のほとんどを廃棄してしまった実家だが、この写真はさすがに躊躇したらしく保持していた。神棚の上から、「俺が持っていても、しょうがないから」と私に渡してくれた。歴史に余り関心を持たない兄貴だが、これは大手柄。もうほとんど見えなくなってしまって修復・復元には大変な手間暇がかかる。いつの日にか、と心に刻んで頂いてきた。 この写真は明治初期の頃?に大萱峠を越えて江戸に向かう時、我が家に宿泊していったときの記念として置いていってくてたものだと言う。
「会津の殿様だ」と今は亡き親父がよく語ってくれていた。

img-616110822-0001複写されたこの写真と同じなのだが、我が家に保存してあった物は原写だ。ということは親父の話は本当だったのだ。撮影の日時は、背景が同じだから、きっと幾枚か撮影してあり、そのうちの一枚を置いていってくれたのだろう。

 
 


***ついでに******   
譲り受けた刀(脇差し)の話

30年前に親父から譲りうけた脇差し一刀。その件も、ここに書き記したい。譲り受ける際、田島警察署に届けを出したのだが、その時しっかりとお叱りと警告を受けた。銃刀法違反の容疑でである。発見したとき届けるのが法の決まりなので、今まで秘密に長期にわたって保管していたことが違法だったらしい。そう言われてもねぇ.....。なんとか文化庁からの所持許可を取り付け、この脇差の所持が許された。さっそく郡山市に行き、鑑定と研ぎと最低の装飾をお願いした。30万円ほど費用がかかったが、鑑定結果をお知らせしたい。

制作時代;室町末期(戦国時代)  研ぎ師;河内守国助三代目  刀紋;あばれ刀紋(獅子衣装の裾にある紋様と同じ)と判明。資料を見せながらの説明に充分納得したものだ。

国助にはお弟子さんも多く、しかし柄元に刻んである筆跡で誰が作ったかは確かによく判明できるように刻銘されている。刀の値段は波形でわかる。

平刀=一本の線が走ったもの、主に足軽が所持(時価100〜300万円程度)

波刀=波状に刀形があるもの、扶持武士が所持(時価300〜500万円程度)

鈎刀=鈎型に刀形があるもの、上級武士が所持したもの(時価700〜3,000万円程度)

で、どうやら三種類があるようだ。親父から譲り受けた刀は波が荒れる刀紋、しかも刀身が、えらく反っている。これは貴族階級が所持していたもので、刀身の反り型は実戦用では無いとのこと。なぜこんな物が奥会津に?と。時価不明。

その刀は、その後どうなったかと言うと、実は今となっては、ものすごく後悔しているのだが、事業資金確保のため売却してしまった。300万円で。トホホだネ。だから、今現在では誰が所持しているのか全く不明。30年前の話です。



yudakoji28 at 15:27コメント(4)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2008年10月10日

三匹獅子の演舞は文官派の大夫獅子と武官派の男獅子、そしてその妻の女獅子による五穀豊穣を祈願した舞の定番「男と女の愛の物語」である。

(物語)大夫獅子と男獅子は親友同士、その妻の女獅子の三匹は仲良く暮らしていた、が、やがて女獅子は大夫獅子に心を傾むけ出す。いわゆる浮気だ。大夫獅子と女獅子の二匹は、目を盗んではデートを重ね、戯れ会っている。だが、やがて男獅子はそれに気づき、怒り狂って山をかき分け、大夫獅子をやっつける。大夫獅子は三度の詫びをお獅子に入れ、許してもらい元のように三匹仲良く暮らしたという、メデタシ、メデタシの物語。

基本形の「前庭」と実力者が演ずる「後庭」という二部構成。見るには後庭のほうが素晴らしい。俗に言う「かっこいい」のだ。笛太鼓の調子がリズムカルで激しく、舞の方も力強く迫力があり、豪快・勇猛なのだ。感動を誘う。

 



yudakoji28 at 11:22コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2008年10月07日

村祭りに奉納される三ツ獅子の演舞

大山神社の神主とともに家主達がお宮に登り、社殿前にて拝む。その後30分おきに1番太鼓、2番太鼓、3番太鼓が村中に鳴り響き、獅子の渡り拍子が始まる。渡り拍子とは行列を作っての入場で、先頭は高張り提灯、やま2つ、笛、大夫獅子、め獅子、お獅子、歌、やま2つ、高張り提灯の順でおこなう。安全ぼめ、橋ぼめ、鳥居ぼめなど、それぞれ舞とともに歌が入る。神社を登ったところで庭入りが入る。次が庭見となるわけだが、ここで座り歌が入り、四方固め、流し、立ち歌、と続き、いよいよやま4つが入り三匹獅子の物語が始まりクライマックスへと入っていく。

 



yudakoji28 at 13:14コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2008年10月06日

獅子頭由来

栗生沢の三匹獅子は、最奥の村で伝承されてきたせいか古風のまま今日まで保持されてきた。村人は「三ツ獅子」と呼んでいる。安政4年(1857)7月に中荒井村から伝授古文書ともども、そっくり引き継いだ。

 

村の鎮守「大山神社」歴史

日光東照宮建立の際、地固めに舞ったという伝承があり、そのとき遅刻をして、わらじのまま舞ったという。それ以来今日までわらじで舞っている。大正9年(1919)7月16日付けで「三ツ獅子起源概説」という巻物を受領したという記録がある。この三ツ獅子は厄除け、火伏せの信仰を持っている。

祭事神社に入る行列

村の鎮守「大山神社」に疫病よけ、火伏せとして毎年奉納されてきている。祭礼の前夜と当日に、また旧盆には「あらため」と称した若者育成の舞が催される。、その他には随時、火伏せの獅子舞として、建設の地固めや落成などの時にも舞っている。習得には笛7年、獅子5年、歌3年を要していたという。舞は勇壮にして激しく、笛の音色は力強く、し社殿合掌り跳ね上がり調と独特だ。前庭、後庭でおおよそ2時間の演出となる舞だ。

不思議な歌??

 獅子舞の歌は全部で48種類。独特の言い回しがあり、聴いている人には全くわからない。皆同じに聞こえてしまう。もともと獅子舞は各地を巡行して各地の情報を伝える役目を帯びていたのだ。今で言うスパイだ。それゆえ情報を歌に託し、聴衆には判らないよう歌って伝達していたという。歌は一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」だが、そのうちの適当なものを挙げてみよう。五、七、五、七、七調の和歌だ

(歌はじめ)友達の引いてなされしこの獅子を、我等が被るご免くだされ

(庭入りの歌)舞り来て四方の庭を眺めれば四方清めの枡形の庭

(獅子転びの歌)天神の龍の駒石に獅子がつまづきご免くだされ

(安全の歌)天は海、星はさざなみ、月は船 かづらうの漕がうぞよ達

などなど、しかし一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」なのだ。子供の頃から、節は良い旋律なのだが歌詞の意味がちっともわからなかった。歌は是非とも覚えたいのもだ。いつの日にか。

 



yudakoji28 at 11:05コメント(2)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2008年10月02日

稲刈り、天日干し、脱穀が終わった秋も終わりの頃、村中央にある分校の敷地で、村の子供、若者を中心とした村相撲が奉納されていた。あの寒さを思い出すときっと10月末か11月初旬の頃だったように思われる。

大量に集められた柴木に火が付けられ2〜3mもの火炎をあげながら、その明かりと暖のもと裸になり、幾番となく相撲が続けられていた光景を思い出す。子供達はそれぞれが事前にペアーを組み、1番だけの相撲。勝ち負けに関係なく褒美は柿2個。これが欲しくて出場したものだ。呼び出し、行事などもしっかりしていて本物の様。出場する若者達の四股名は村周囲を取り囲む山河の名が付けられていた。若者達の相撲は、これは大変である。序盤は3人抜きだ。これは早々に勝者が決まるが、本番の5人抜きは、壮絶。勝敗の決着がつくまで延々と続けられる。深夜に及ぶこともしばしば。将に大相撲だ。よって本当に強い足腰と体力、そしてスタミナを持った者だけが勝ち得る、真の強者すなわち村の絶対王者選定相撲となっていた。翌日はきっと足腰が立たず体が壊れる一歩手前の状態の心地良さに浸っていたことだろう。

この相撲奉納が終わると村は長い厳冬に埋もれていく。

 

 



yudakoji28 at 09:08コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭 

2008年09月25日

栗生沢の村中にある神社の右脇道から「大萱峠」を越えて栃木県那須野の百村に抜ける会津中街道。江戸への近道として江戸末期から明治初期まで利用された。幕末の会津藩主松平保容公及び家老西郷頼母等も通ったという。宿営地は橋本屋?。  ん?俺の実家じゃん。そう言えば子供の頃良く親父が見せて話してくれた「これが会津の殿様の写真だよ、記念にって置いていってくれたんだ」と。それは銅板写真。奥座敷にはこの写真の肖像画が飾られていた。「我が家の家宝だ」といつも自慢して見せてくれた。それと一緒に色づけされた巻物一巻。戊辰戦争の俯瞰図だ。今、どこにあるのやら。実家は新築移転され、他の人の物に。もらってくれば良かったと後悔している。我が家は村人から「はしっぱた」と呼ばれていたのを思い出した。湯田姓が多い村で区別のために屋号で呼び合っていたようだ。「はしっぱたの孝次」ってね。そうか、そう言うことだったんだ。

yudakoji28 at 12:51コメント(99)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2008年09月24日

毎年の自己慣習としている9月23日のお彼岸。実家「栗生沢」の親父の墓参り。この地区はお彼岸の墓参という習慣が無い。今年は娘二人と孫一人と一緒に。途中、兄貴がやっている「リンゴ園」に立ち寄り兄貴の嫁さんとしばらく談笑後墓参りの前に大内宿へそば食べに。しかし、道路は大混雑。村の入り口で、立ち往生。あきらめてUターン。大好きな親父が眠る墓へと直行した。 一年間の報告と自分の心の洗浄に。黙とうの静寂感が、心を満たす。 しかし、可愛いかな母親が傍らで、処理の早さを求めてくる。墓参りの意味、感受、文化のソフトは全くといって無い母親。もっとも、この地区の人、全体に言えるのだが全てが慣習化され行事の形骸のみと成されている、全てがだ。というのは行事の有り様に何ら疑問を持つ術が無く、強制的に、且つ義務的に受け入れさせられているという実体だ。村人全員といっても過言ではない。死は厳然と受け止め、何の意味を持たせず、ただ時間だけが経過していく。村は恐ろしいほどの静寂感を持ったライブ感の無い村そのものだ。もっとも、そんな時間が全く止まっている村「栗生沢」を私は大好きなのだ。そして、かつて、有った数々の行事の復活と再興を願っている自分がそこに出てきている。

 



yudakoji28 at 11:19コメント(0)トラックバック(0)栗生沢帰省 

2008年09月22日

栗生沢にまつわる文献を見つけたので掲載する。 ※先祖の登場人物は誰の家の人?(登場人物)--------------------------------------- (村長)湯田久左衛門(村人)湯田宇平:湯田佐吉;湯田仲吉;湯田百太郎 --------------------------------------------- ◆第七十一話:栗生沢に果てた芸州兵◆ ■慶応四年(一八六八)八月二十九日、肥前・芸州・大田原・宇都宮の四藩からなる。西軍二千の兵は田島に攻め入った。会津兵はその日の朝、戦わずして田島の陣屋を引き払っており、これを追う西軍は翌三十日、さらに大内宿方面に向かって進撃を続けた。順調に勝ち進んだ西軍は、そこから一部の兵を返して田島に駐留させたが、彼らの狼藉ぶりは目に余るものがあった。腹に据えかねた地元農民たちは、会津奇襲隊による大内宿奪還作戦が九月九日の五ツ刻(午前八時)を期して行われることを知り、これに合わせて田島でも行動を起こすことを決めた。彼らは田島陣屋を襲撃すべく、田島組八箇村から一戸一人ずつ蓑笠姿で河原に終結し、わざと西軍陣屋へ「会津の大軍がそこまで押し寄せてきた」と告げ、一方では松の木大砲をドカン、ドカンと 打ち鳴らした。松の木大砲とは、ポンケ鍛冶屋の異名を持つ村の鍛冶屋が急きょ造ったものであったが、とにかく小勢の西軍は、敵の大軍と聞いただけで浮足だち、食いかけの朝飯を放りだして蜘蛛の子を散らしたように山中に逃げこんだ。■この西軍の将に山本他人輔がいた。山本は「大砲隊に攻撃されてはわが軍は全滅だ。遺憾ながらこの場は逃げるよりほかに方法がない。逃げ行く先は水無を通り、栗生沢(くりうざわ)から大萱峠を越えて下野那須郡高林村」と命じた。西軍に人足として使われていた栗生沢の湯田宇平は早速わが村へと走りこの事を名主に報告した。すると名主の久左衛門は村人を急きょ氏神様の境内に避難させると、西軍の通過に備えた。■明くる日の夜明けころ、西軍の兵たちは栗木坂を登って居平に到着した。この時 村人らは一斉に鬨(とき)の声を挙げ、それに合わせて湯田佐吉が猟銃を撃ったので、驚いた西軍の兵は坂を逆戻りし、部落を遠く迂回しながら逃げていった。 ■それから二、三日たったある早朝のこと、湯田仲吉、同百太郎の二人が山仕事に 出掛けたところ、広川原の杉林前にある小屋の中から呼び止める者がある。みるとそれは二人の芸州兵であった。仲吉らがびっくりして逃げようとすると、二人の兵は地べたに伏して助命を乞うた。彼らは栗生沢部落を迂回しようとして山中に迷い込み、この狭い山小屋の中で火を焚いて暖をとり、桑の葉っぱを食みながら露命を繋いでいたのであった。会津地方の、しかも深山の陰暦九月半ばといえば夜の冷え込みもかなりに厳しい。手足はすっかり霜やけにかかり歩くことも困難な様子であった。そこで二人は持ち合わせの握り飯を与えると、彼らは二分金一枚ずつをもって礼をし「我らを是非関東まで送り届けてほしい。後生だ」そう言ってなおも頼む。仲吉と百太郎はこっそり送ってやるつもりで彼らを担いで山を下りてくると、途中で村人に出会った。すると彼らは「この上の小屋においた方がいい」と言う。二人はこの意見に従って上の小屋に移し一旦は村に帰ったが、村で相談した結果、彼らの命を取ろうということになった。村人らは暮れ六ツを合図に小屋を取巻いた。すると芸州兵も外のただならぬ気配を感じ草叢のなかに隠れたが猟銃で撃たれて非業の最期を遂げた。この時の一人が山本他人輔その人であったそうで、慈恩寺境内にある「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がみえまた糸沢の龍福寺には芸州兵が宿営した時に落書きした「芸州藩二番隊」の逆さ文字が残っている。     小島一夫著「会津戊辰戦争百話」より抜粋

官軍の将 山本他人輔とは芸州藩(広島)の外様歩行横田組の役人で、栗生沢の墓場に彼のお墓がある。後日調査したい。



yudakoji28 at 11:37コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2008年09月20日

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大萱峠の道標

 

 

 


 

        神社の鳥居脇から始まる会津中街道、日本山岳会の資料の中から写真を発見!!標識と祠の写真だ。祠には文化3年湯田右衛門と記録された板版が納められていた。この祠が設けられた時期は以下の通り
文化3年(1807年)第11代将軍徳川家斉 田沼意次や松平定信らが名を残した時期でもある。 



yudakoji28 at 09:57コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事