2008年12月05日
水無川の上流にある栗生沢村。なぜか5月5日の端午の節句に鯉のぼりを揚げないのだ。水もこの日は飲んではダメという。このいわれは、いにしえよりの習慣だ。鯉のぼりは田島町にある中学校へ通うようになって初めて目にしたものだ。
亡き父親からの話によると、この日に田島のほうで歓声があがり、これを援軍だと思ってのぼりを揚げたが、実は官軍だった。この官軍に気づかれ押し攻められた故、会津軍は山中に逃げ込み上流から毒を川に流したそうな。。。それゆえ、鯉のぼりをあげることと、この日は水を飲むことが禁止という、この慣わしが今日まで残っているのだという。
確かに戊辰戦争における栗生沢の戦いの記録はある。(記録「会津戊辰戦争百話第七十一話」より)。ただし、期日は9月10日、これは今日の10月10日にあたるので、話とは時期が合わない。
他村の「鯉のぼりを揚げない村・地域」を探る。
福島県南会津町栗生沢村以外では、栃木県の湯西川村、埼玉県の神泉村がある。栃木の湯西川では似たような話で「平家落人伝説」として今に残っており、また埼玉の神泉村でも似たような話で「平将門伝説」が有り、ともに今日でも鯉のぼりを揚げない習慣を今に残している。栗生沢、湯西川、神泉の3カ所では、鯉のぼりは「不吉」を呼ぶという慣わしを抱えているのだ。この3村の共通点は何か。ただ言えることは、ともに平家に関する流れを持っていること。栗生沢も先祖は平家落人の可能性が高いと言うことだろうか。火の無いところに煙は立たないとも言うので、その可能性はとても高い。ただ伝説ゆえ、それらを正す根拠がない。
2008年11月12日
撮影は翌年の春3月のころ。昭和36年に工事が着工し昭和38年完成。(写真は新築当時なので、真新しい。45年後の今はボロボロ)。昭和40年4月、田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立。
昭和40年に第1回目の卒業生を送る。その卒業生の写真がこれである。
<卒業名簿>湯田信隆、湯田吉美、湯田文和、湯田孝次、湯田輝義(男5人)、湯田幸恵、相原富子、伊野瀬幸子、相原ひろの、佐藤セイ子、湯田ノブイ、湯田千歳、湯田友子、湯田孝子、星年子(女10人)
=【合計15人 15人中10人が湯田の姓】=
山奥に閉ざされた栗生沢村の明るい未来を示唆した卒業式に村を挙げての行事となった。校歌も、この時発表され、晴れがましく歌い上げられた。
栗生沢小学校校歌(山田直美先生;平野増雄先生作詞)
一、遙かに仰ぐ男鹿岳の 峰は希望の朝ぼらけ
みんなの笑顔美しく 光る言葉に呼びかける
二、清く流れるせせらぎに 声はずませて遊ぶとき
みんなの歌はほがらかに 響く瀬音に呼びかける
三、長い歴史を育んで 遠く伝わる三ツ獅子に
みんなの夢はたくましく 輝く未来に呼びかける
涙しながら歌ったものだ。今、書いている最中にも頬をつたわつものがある。苦労して、苦労して、ここまで来たんだという万感の思いが子供心に感じ取っていたのだろう。この栗生沢小学校として独立した際の学童在籍数は全校で104人と記憶している。今は残念ながら廃校となってしまった。
山田先生と平野先生が、毎日毎日黒板に詩を書いては消しての繰り返し。このとき知った詩の作り方、7・5調での言葉組み合わせというものを。
小学校1・2・3年間は村中央にある分校で複式学級。今のバス駐車場だ。木造2階建校舎。冬になると雪が深くなるため先生方は村に分宿。私の家では毎年2人の先生が宿泊していた。本当に雪が深かくて家の軒先まで積もるのだ。およそ2m位となるのかな。暖房は薪ストーブ。お昼の弁当をこれで暖めるのだが4時間目の授業となると弁当に入っているタクアンの匂いで教室が充満する。冬の食料はタクアンと梅干しのみ、どの家も貧しかったのだ。こうして長い冬を越していた。春が本当に待ち遠しかった。
3年生の時になると、いよいよ新校舎の建築が始まり、建築造成中の新校舎をよく写生に行ったものだ。4年生の時、引っ越し。しかし校舎の落成はなったものの校庭ができていない。予算が無いという。それからの1年間は、全校生で校庭整備、石拾いに費やされた。校庭を周囲する丘は、この時拾われた石が集積されてできたもの、5年生の時、やっと使用に耐えられるようになった。あわせて脱脂粉乳のミルクが給食され栄養補給が成されるようになってきたのだ。そして、この年が田島小学校での最後の卒業式となる。栗生沢分校在校生の代表として私が田島小学校までツギハギの服を着て、恥ずかしい想いをしながら出席したから良く覚えている。特に私の家も貧しかったのだ。一人で初めて村を出た日、それは田島町は都会だったのだ。今となっては嘘のような話だね
6年生になると村にもTVが普及しだし、私の文明開化が一気に訪れる。そして晴れて栗生沢小学校独立第1回卒業式を迎えたのであった。。
2008年11月11日
11月4日あまりにも天気が良くて爽快な秋空が、お袋とのドライブを誘った。仕事を中止して、お昼頃、出発。塩原を抜けたあたりから車のバーッテリーに異変が、走行には別段影響がないだろうとそのまま故郷路へ、三依〜横山あたりにさしかかったところでアラーム音が、ヤバイと思いながらも、そのまま走行。県境の山王トンネルでライトを付けた瞬間、アラーム音がけたたましく鳴り出した。アクセルを踏んでも出力が弱い。たまたま下り道だったか良かったもの、そのまま道まかせに走行、トンネルを無事抜けてライトを消したが、すでにエンジン出力は無くなっていた。しばらくその状態で道の駅まで、さすがにここで走行を止めようと思いハンドルを道の駅に切ったとたんエンジン停止。しかし慣性でそのまま駐車場へ無事駐車。「まぁ、こんなこともあろうよ」ってな感じでそこで一服。周囲を見ると紺碧の青空と雄大な紅葉に圧倒され、感激。一杯の蕎麦を食べ、タクシーを呼んで栗生沢の実家へ。誰もいない。迎えは夜になるみたいだから今日はゆっくり村を散策しようと、「せっかく」を有意義に味わった。村の中を歩くも人っ子一人見受けられない。ただシーンと静まりかえっている。稲刈りも終わり、ただ冬の到来を待つだけの深まりゆく秋のつかの間。聞こえるのは「シーン」という音だけ。本当にシーンという音はあるんだなぁと実感する。一通り村を回りながら、少々風情の変わったところを見て過去の幼少年期を懐古する。自分だけの持つ特別な想いに郷里愛がひたされる。家に戻るとお袋が畑仕事から帰っていた。畑の土手に座りながら長話。これがまた良い。お袋独特のイントネーションと言い回しに気持ちが安らぎ癒される。もっともこの噺調子で育ったのだから当たり前か。夜、兄貴が帰宅。久しぶりの兄弟話しに花が咲いたものだ。今年一番の幸福なひとときだったような日でした。車の故障に感謝です。
2008年11月10日
(歴史)
1590年、豊臣政権下に近江出身の蒲生氏郷が藩主として会津に赴任。このとき幸福の言葉「松と鶴」が地名に用いられ会津若松と鶴ガ城の誕生となった。藩は盛況を極め会津100万石の大藩となる。しかし実はこの蒲生氏郷、キリシタン大名だったのだ。蒲生氏郷の姉が南山鴫山城の城代であったがためキリスト信仰は南会津、特に栗生沢と水無等には多くの信者がいた。
1614年、徳川幕府はキリシタン禁止令を出しこれを迫害。栗生沢は村全体で転宗・改宗としながらも実は隠れキリシタン部落となっていた。資料「転切支丹類族書上帳」には栗生沢、水無の村民が多く記帳されている。
1637年、島原の乱が起き、そこから逃亡してきた家司馬将なる人物と水無のキリシタンの長である横沢丹波の家で外国人宣教師ともども捕らえられ、逆さ磔・斬首によって殺された。(記録書「会津事始」より)
(湯田の姓についての考証)
隠れキリシタン村「栗生沢」という下地のもと、湯田の名は隠れキリシタンとなるために、あえてイエスの裏切り者「ユダ」を名乗ったと思われる。なぜならキリシタンの痕跡のあるところには必ずある名字「湯田」なのです。明治6年に施行された「名字苗字必唱令」より、遙か昔から、湯田の姓は残されてはいる。古くは慶長8年(1603)の「言上之事」という願書には湯田左近という名が代表で記載されてある書がある。時期的には蒲生氏郷時代、田島城代の小倉作左衛門に提出された書である。また文化3年(1806)湯田右衛門なる板碑も峠の祠に現存し、村の大山神社には幾枚かの板碑が納められている。名字を持つことが許されていない時代にです。さらに幕末の戊辰戦争には村長;湯田久左衛門他、湯田宇平、湯田佐吉、湯田仲吉、湯田百太郎なる名前が上がっている。これを見るに村人全員が湯田を名乗っていたようだ。
隠れキリシタンを今に伝える事例としては、村にはお寺が無いということ。栗生沢と水無にだけお寺が無いのだ。(水無では田圃の中からマリア観音と見受けられる石像が近年、発見された。)それゆえ、9月23日のお彼岸という行事がこの村には今でも無いのだ。さらに、部落の紋所は皆、十字架を思わせる角立ち四つ目のマーク、まだ、私自身確認していませんが、この紋所は薩摩の島津藩と同じだが栗生沢独自の物。
キリシタン禁制の江戸時代に苗字を持つことが許されていたのは村長だけ、そしてキリシタン弾圧から身を守るために新約聖書の裏切り者とされているユダをあえて名乗り「転び切支丹」に見せかけたようだ。以来、村全体が湯田一族として今日まで、この苗字を存続させてきた。
※今でも伝わる風習に、5月5日の端午の節句には、鯉のぼりの禁止、飲水の禁止、そして9月23日のお彼岸の墓参りの禁止などが有ります。里帰りの度、調査してきますので、楽しみにしていてください。
2008年11月06日
新居引っ越しにともなっって古物のほとんどを廃棄してしまった実家だが、この写真はさすがに躊躇したらしく保持していた。神棚の上から、「俺が持っていても、しょうがないから」と私に渡してくれた。歴史に余り関心を持たない兄貴だが、これは大手柄。もうほとんど見えなくなってしまって修復・復元には大変な手間暇がかかる。いつの日にか、と心に刻んで頂いてきた。 この写真は明治初期の頃?に大萱峠を越えて江戸に向かう時、我が家に宿泊していったときの記念として置いていってくてたものだと言う。
「会津の殿様だ」と今は亡き親父がよく語ってくれていた。
複写されたこの写真と同じなのだが、我が家に保存してあった物は原写だ。ということは親父の話は本当だったのだ。撮影の日時は、背景が同じだから、きっと幾枚か撮影してあり、そのうちの一枚を置いていってくれたのだろう。
***ついでに****** 譲り受けた刀(脇差し)の話
30年前に親父から譲りうけた脇差し一刀。その件も、ここに書き記したい。譲り受ける際、田島警察署に届けを出したのだが、その時しっかりとお叱りと警告を受けた。銃刀法違反の容疑でである。発見したとき届けるのが法の決まりなので、今まで秘密に長期にわたって保管していたことが違法だったらしい。そう言われてもねぇ.....。なんとか文化庁からの所持許可を取り付け、この脇差の所持が許された。さっそく郡山市に行き、鑑定と研ぎと最低の装飾をお願いした。30万円ほど費用がかかったが、鑑定結果をお知らせしたい。
制作時代;室町末期(戦国時代) 研ぎ師;河内守国助三代目 刀紋;あばれ刀紋(獅子衣装の裾にある紋様と同じ)と判明。資料を見せながらの説明に充分納得したものだ。
国助にはお弟子さんも多く、しかし柄元に刻んである筆跡で誰が作ったかは確かによく判明できるように刻銘されている。刀の値段は波形でわかる。
平刀=一本の線が走ったもの、主に足軽が所持(時価100〜300万円程度)
波刀=波状に刀形があるもの、扶持武士が所持(時価300〜500万円程度)
鈎刀=鈎型に刀形があるもの、上級武士が所持したもの(時価700〜3,000万円程度)
で、どうやら三種類があるようだ。親父から譲り受けた刀は波が荒れる刀紋、しかも刀身が、えらく反っている。これは貴族階級が所持していたもので、刀身の反り型は実戦用では無いとのこと。なぜこんな物が奥会津に?と。時価不明。
その刀は、その後どうなったかと言うと、実は今となっては、ものすごく後悔しているのだが、事業資金確保のため売却してしまった。300万円で。トホホだネ。だから、今現在では誰が所持しているのか全く不明。30年前の話です。
2008年10月10日
三匹獅子の演舞は文官派の大夫獅子と武官派の男獅子、そしてその妻の女獅子による五穀豊穣を祈願した舞の定番「男と女の愛の物語」である。
(物語)大夫獅子と男獅子は親友同士、その妻の女獅子の三匹は仲良く暮らしていた、が、やがて女獅子は大夫獅子に心を傾むけ出す。いわゆる浮気だ。大夫獅子と女獅子の二匹は、目を盗んではデートを重ね、戯れ会っている。だが、やがて男獅子はそれに気づき、怒り狂って山をかき分け、大夫獅子をやっつける。大夫獅子は三度の詫びをお獅子に入れ、許してもらい元のように三匹仲良く暮らしたという、メデタシ、メデタシの物語。
基本形の「前庭」と実力者が演ずる「後庭」という二部構成。見るには後庭のほうが素晴らしい。俗に言う「かっこいい」のだ。笛太鼓の調子がリズムカルで激しく、舞の方も力強く迫力があり、豪快・勇猛なのだ。感動を誘う。
2008年10月07日
村祭りに奉納される三ツ獅子の演舞
大山神社の神主とともに家主達がお宮に登り、社殿前にて拝む。その後30分おきに1番太鼓、2番太鼓、3番太鼓が村中に鳴り響き、獅子の渡り拍子が始まる。渡り拍子とは行列を作っての入場で、先頭は高張り提灯、やま2つ、笛、大夫獅子、め獅子、お獅子、歌、やま2つ、高張り提灯の順でおこなう。安全ぼめ、橋ぼめ、鳥居ぼめなど、それぞれ舞とともに歌が入る。神社を登ったところで庭入りが入る。次が庭見となるわけだが、ここで座り歌が入り、四方固め、流し、立ち歌、と続き、いよいよやま4つが入り三匹獅子の物語が始まりクライマックスへと入っていく。
2008年10月06日
栗生沢の三匹獅子は、最奥の村で伝承されてきたせいか古風のまま今日まで保持されてきた。村人は「三ツ獅子」と呼んでいる。安政4年(1857)7月に中荒井村から伝授古文書ともども、そっくり引き継いだ。
日光東照宮建立の際、地固めに舞ったという伝承があり、そのとき遅刻をして、わらじのまま舞ったという。それ以来今日までわらじで舞っている。大正9年(1919)7月16日付けで「三ツ獅子起源概説」という巻物を受領したという記録がある。この三ツ獅子は厄除け、火伏せの信仰を持っている。
村の鎮守「大山神社」に疫病よけ、火伏せとして毎年奉納されてきている。祭礼の前夜と当日に、また旧盆には「あらため」と称した若者育成の舞が催される。、その他には随時、火伏せの獅子舞として、建設の地固めや落成などの時にも舞っている。習得には笛7年、獅子5年、歌3年を要していたという。舞は勇壮にして激しく、笛の音色は力強く、し
り跳ね上がり調と独特だ。前庭、後庭でおおよそ2時間の演出となる舞だ。
不思議な歌??
獅子舞の歌は全部で48種類。独特の言い回しがあり、聴いている人には全くわからない。皆同じに聞こえてしまう。もともと獅子舞は各地を巡行して各地の情報を伝える役目を帯びていたのだ。今で言うスパイだ。それゆえ情報を歌に託し、聴衆には判らないよう歌って伝達していたという。歌は一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」だが、そのうちの適当なものを挙げてみよう。五、七、五、七、七調の和歌だ
(歌はじめ)友達の引いてなされしこの獅子を、我等が被るご免くだされ
(庭入りの歌)舞り来て四方の庭を眺めれば四方清めの枡形の庭
(獅子転びの歌)天神の龍の駒石に獅子がつまづきご免くだされ
(安全の歌)天は海、星はさざなみ、月は船 かづらうの漕がうぞよ達
などなど、しかし一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」なのだ。子供の頃から、節は良い旋律なのだが歌詞の意味がちっともわからなかった。歌は是非とも覚えたいのもだ。いつの日にか。
2008年10月02日
稲刈り、天日干し、脱穀が終わった秋も終わりの頃、村中央にある分校の敷地で、村の子供、若者を中心とした村相撲が奉納されていた。あの寒さを思い出すときっと10月末か11月初旬の頃だったように思われる。
大量に集められた柴木に火が付けられ2〜3mもの火炎をあげながら、その明かりと暖のもと裸になり、幾番となく相撲が続けられていた光景を思い出す。子供達はそれぞれが事前にペアーを組み、1番だけの相撲。勝ち負けに関係なく褒美は柿2個。これが欲しくて出場したものだ。呼び出し、行事などもしっかりしていて本物の様。出場する若者達の四股名は村周囲を取り囲む山河の名が付けられていた。若者達の相撲は、これは大変である。序盤は3人抜きだ。これは早々に勝者が決まるが、本番の5人抜きは、壮絶。勝敗の決着がつくまで延々と続けられる。深夜に及ぶこともしばしば。将に大相撲だ。よって本当に強い足腰と体力、そしてスタミナを持った者だけが勝ち得る、真の強者すなわち村の絶対王者選定相撲となっていた。翌日はきっと足腰が立たず体が壊れる一歩手前の状態の心地良さに浸っていたことだろう。
この相撲奉納が終わると村は長い厳冬に埋もれていく。




