2010年06月14日
昨年に続き、2度目の三ツ獅子見学。完成度が高く、熟練された舞に仕上がっていた。昨年は久方の舞に感動し、今回は完成度の高さに感動。まさに芸能の域に達していた。歌舞伎要素で言う、舞う間の取り方、手足の切れリズムに数段と丁寧さが加味され、上手い。!(^^)!その上達ぶりに、うれしさ倍増!感謝!感謝!の連続。故郷を守る意気の高さに、その素晴らしい心に「ありがとう」の言葉しか出ない。感無量とはこのことだ。
!栗生沢!
!三ツ獅子!
また、獅子舞はなんと言っても神社の背景とマッチして絵になるのだ。なぜなら村で昔から不変なのはこの境内だけだからだ。
入場時の舞「岡崎」「怒りの舞」「庭総見」など⇒地固めの舞。大夫獅子と雄獅子が交互に舞を競い合う。


雌獅子と大夫獅子との密会⇒大夫獅子と雄獅子の対峙⇒勝敗を決す。



「ごめんなさい」の謝り⇒仲直り巻寄せ <遺伝子は後世に脈々と>



獅子頭が重いため、このような装備で舞っていました。精悍な演舞ヒーロー達の名前は
左から 相原盛和 湯田善吉 湯田健一 でした。



昨年秋の動画だよ
2010年06月06日
第一段の発表!!
以下の写真のごとく只今7月中旬に出荷できるよう育成中。
奥会津高原ゆえに太くて柔らかいアスパラです。宅急便にて産地直送が可能です。ミネラルを多く含んだ自然食品の数々を次々と発表していきますのでご期待ください。

2010年05月21日
我が愛すべき村「栗生沢」。今年(平成22年)のお祭りは6月13日(日)だ。※例年6月の第2日曜日となっているらしい。
前日が前夜祭となっていたのだが、かつてのように夜、神社に拝殿し酒を酌み交わしながら獅子舞を舞うということは無く、当番の者が数名神社に上がり神主からお祓いを受けて終わり、帰宅するそうだ。
お祭り当日は朝9時に村人の主達総員が神社に上がり、五穀豊穣を主とした詔を神主から祓い清め頂いて一連の儀式を済ませると、10時からいよいよ三匹獅子が登場・演舞となる。見たい人は朝10時までに村の神社まで詣でてください。
午前中に演舞の前庭が神社に奉納されると、
午後1時からは、クライマックスとなる後庭が
お党家の庭で演じられる。今年は村の駐車場にて上演される。(馬車屋の前)

雨が降らなければ良いが…………。
懐古と出会い だ
2009年09月29日
も、なんとしても、見たかった会津祭り。娘二人と孫一人を連れて、会津若松へ。早かったため城内の駐車場へ駐車することができた。NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝役とその妻役の2人が来るというせいも有ってか城内は、人垣で一杯。頭の中が「天地人」埋まっていただけに、チョットとまどいが
…。
会津は幕末の悲劇が永遠と観光の基盤なんだと再認識させられた。
「新撰組」と「白虎隊」そして「娘子隊」
豪華絢爛の武者行列を見た後、久しぶりに武家屋敷へと足を運ぶ、西郷家老宅だ。「でかい」。

午後2時に会津若松を後にして、母の待つ実家南会津町栗生沢へと車を走らせる。途中、お墓にあげる花と線香を買い3時半ごろ実家に到着。
お袋と一緒に写真を撮る。
湯田カツヨ(87才)、いたって元気。今はやりの認知症の気配など、全く無し。頭は明晰、至って元気。この村生まれでこの村育ち、この村が世界の中心であり世の常識の中枢と思っている。お袋の話は、このブログの大切な題材。歌はオンチで歌わないが白虎隊の唄は、しっかり音程を守って歌うことができる。50年ぶりに聞いた「♪アラレのごとく乱れ飛ぶ、敵の弾丸〜♪」と、私が5歳の時に母から聞き覚えた唄だ。親父からは詩吟を習い、お袋からは唄を習った。それ故、会津の唄は、50年経った今でも、鮮明に歌うことができる。夕方5時、実家を後にする、故郷をハミングしながら。
2009年06月15日

小雨煙る梅雨時の6月14日(第2日曜日)行って来ました久しぶりの栗生沢のお祭り。
到着がちょうどお昼時、昨夜と午前中は神社にて奉納の舞があり、
午後からは、お党屋番の家で後庭の舞が披露された。
10数年ぶりの獅子舞に感極まっってしまった。
皆 元気だ!
過疎化の
村、高齢の村、にもかかわらず、「皆、元気」一杯!、もう、これだけでも充分。三匹獅子も数人の若者がしっかりと後継し伝承していた。
しかも30年ぶりに「巻寄せ」が復活。舞に激しさが加わった。スクワットが中心となった舞だけに、相当の体力が要求される。昔の人の体力に驚愕、今となっては大変な舞だ。
ゼー、ゼー
、ハァ、ハァ、に見て
いる人の笑みがこぼれる。至福の時だ。伝統が息吹いていた。簡略もされずに、しかも古舞まで復活とは、「この村出身で良かった」と誇りに思えた瞬間、村人達に感謝、感謝、だ。
笛の清さん70才、息が続かず、短く切りながらの笛の音、昔は力強い音だったのにネ。良隆さんの舞は、もう見れない。哲治に至っては、世話役になっていた。真新しい黄色のタスキを掛けデビューしたあの初々しい舞は、つい、昨日のように脳裏に浮かぶ。皆、年老いてしまった。それでも一徹とした頑固さが健在だったのには、嬉しかった。
村人に親しまれ愛され長く伝わってきた三匹獅子、三ツ獅子、
永遠なれ!
http://www.interq.or.jp/leo/f2000/
2009年05月18日
キリシタンの隠れ村里「栗生沢」。その資料となるべく「転切支丹類族書上帳」、それに今にも残る慣習の数々。
「キリシタン」(=切支丹)の別な呼び名「クリスチャン」からの由来で、「クリス」の漢字表記には栗栖、栗須、栗巣等があり、栗生は、その「クリス」から派生した言葉。
これほどまでにキリスト教への信仰が強く深かった栗生沢。しかし私の知るところでは現在の信者は皆無。その流れも欠片もなく、絶滅状態。ただお彼岸の行事が無いという慣習が残っているだけ。田島町では今でも結構キリスト教は広く伝わり、教会やら幼稚園やらと有るのだがね。
そういえば先祖への供養としてのお墓参りは、年に一回、お盆の時だけ、しかも午前中に行っていた。供養物はお茶、団子、線香、お花などだが、不思議なことに、お墓の前で腰をかがめ手を合掌して拝むということをしない。持ってきた供養物をお墓に沿えて巡るだけなのだ。とても粗雑なお墓参りなのだが村人全体が同様なので、子供の時から、お墓参りとは、そんなものと思っていた。
またまた次期への抱負となってしまうのだが、村にまつわる資料の全部を現代語訳した上で記録、掲載してみたいものだ。これはきっと私が70才を過ぎた頃の作業となってしまうような感がする。膨大な時間がかかるから、だから。。「いつの日にか」ってネ。

2階の手摺に刻まれている屋号、旅籠としての名前か?、神社の前の6〜7軒ほどには次の名前が残っている。
中村屋、橋本屋、加登屋、越後屋、若松屋、大黒屋、白木屋、等々だ。
写真は私の実家の写真。龍の頭3個の上に右に漢字、左に大和仮名で「はしもとや」と刻銘されている。
古よりの記録が新築、増築で消えていくなか、貴重なもの、大切に残していきたいものだ。
5月のGWに帰省。早速お墓を散策。いくら探しても見つからない。するとお袋が「何を探しているの?」と聞いてきた。事情を説明すると、依然、お墓の廃合整理するさい、無縁仏にもかかわらず湯田旭さんが「かわいそうだから」と自分の墓地に移動、手作りながら写真にある墓票を立てたそうだ。
墓標に名前は無く、ただ「官軍の墓」とだけ記銘してあった。でも気持ちが嬉しいね。この機会に覚えておこう
その人の名は西軍の田島方面軍の将であった芸州藩外様歩行横目組「山本他人輔」。の人だ。慈恩寺境内には「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がある。また広島県にある芸州藩籍名簿にも彼の名前が乗っている。没年は慶応4年(1868)9月14日。殺ったのは(手柄をあげたのは?)湯田仲吉、湯田百太郎他村人数人。誰のどの家のご先祖かな?
2009年04月06日
簡略化が進む葬式は年々画一化しているが、田島地方では、喪主は依然、かみしも・はかまを着用している。数年前までは額に白の三角紙をつけていたのだが…。そうそう、このへんでは葬式のことを「ジャンボ」と呼ぶんだ。今回は兄嫁の父親のジャンボだった。享年88才
ニッカン(納棺)は、生豆腐を食し、死者には手甲、脚絆、杖、六文銭(60円)、頭蛇袋を、左前に白の着物を着せるという習慣は、今回は立ち会えなかったがおそらく、今でも行われているはず。考え方として葬式は縁起をかつぐため在来のしきたりに目立つ変化はあまり好まれないからだ。
告別式には、チョット戸惑ってしまった。参列者には「きかせ」と「ひら」があり、受付で「きかせ」は名前が掲示されていた。自分の名前を見つけ「きかせ」ですと言い香典を出す。すぐに親族が待つ式場へ、式の始まる前に線香をあげ親族へ弔の挨拶をする。いったん式場を出て、しばらく式が始まるまで外で待つ。この間旧来、遠来の親交が葬式で引き合わされ、しばしの談笑タイム。式の始まりは、死者との近い順から名前を呼ばれ、順々に着席していくというもの。一通り縁者の着席が終えると、後は順不同に入場、着席し、式が開始された。
4月3日、依然、奥会津は雪景色、山並みの稜線は灰色で描かれモノトーンの世界。だが、春は間近に感じる。
※死後の世界は、「無いより有ったほうがいい、なぜなら、その方が都合がいいし、気持ちも癒されるから」と考えている。自分の感ずるままに。
2008年12月12日
正月14日頃だったと思うが、夕方からツチンボ(わら打ちの棒)に縄を付けて家の周囲を引いて回った記憶がある。お袋から、これをすると畑に害虫である長虫と蛇が来なくなるという。
「ツチンボのお通りだ、長虫くんなよ、山の神ござれ」と繰り返し歌いながら、夕方の縛れるような寒さだけを強烈に覚えている。このツチンボで地面を叩くと蛇が出なくなると言われ、かじかんだ手でツチンボを持ち地面を叩きながら家の周りを歩いたものだ。あれは何だったんだろうと、そして子供の次男の俺が何故?と。辛くイヤな行事だったが家のことを思うと願いを込めながら必死になって歌いながらツチンボのお通りを行っていた。他の家でもやっていたのだろうか?、それとも我が家だけだったのだろうか?


