2012年03月02日

 栃木の板室温泉から那須高原に抜ける道沿いに会津中街道の跡を示すかのように道標碑が建っていた。
「右;会津街道、左;ゆもと道」と刻まれていて、これは元禄八年(1695年)に開設された会津中街道の道しるべとして天保七年(1836年)に建てられたもの。2mほどの高さがあって他には類を見ない立派な石碑だ。
これと同じものが田島と栗生沢の分岐点に建てられていたそうだ。左;三斗小屋、右;日光へと書いてあったかどうか、不詳だが、道標の石碑が有ったことは確かである。残念ながら建築資材として盗失したようだ。

(注釈)会津中街道とは、栗生沢を通って、三斗小屋経由で、板室へ抜け、関東に行く街道を指す。幕末から明治初期にかけて往来が活発だった。村中が、同じ湯田を名乗っていたため、この機に屋号でお互いを呼ぶようになった。(例、私の場合は、橋本屋なのだが、通称「はしっぱた」と呼ばれていた。)


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美しき冬の栗生沢村(平成24年1月撮影)





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2012年02月17日

平成23年6月の動画だよ。巻き寄せと追い転ばしが録画されています。撮影は、湯田哲治。
本当は庭入りの舞から、四方固め、などなど、後世に残しておきたい動画が欲しいのだが。
いつも、ついつい三つ獅子の舞に夢中になり録画することを忘れてしまっている。感動することを
最優先してしまう私なのだ。そして、いつの日にか神社では後庭を常として舞って欲しいものだ(^∀^)
神社の境内は最高のSituationなのだ。It's nostalgia.


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2011年06月16日

11

とや山と滝沢山
 
学校からの下校の道すがら、仰いだ山々、正面は「とやま」と「たきざ」そして右手には「あせがち山」と、この3つの山が私を育んでくjれた。
 とやまの裾ではスキーを、たきざの河原ではイワナ取りを、そして、あせがちやまではワラビ取りをと。
 この写真の光景を幾百度、幾千度となく脳裏に刻み込んだものだ。眩いばかりの初夏のもと、耳をつんざく蝉の声、そして蛙の鳴き声、校庭から遊び疲れて足を引きずりながらの家路、そして吹雪の中での下校……。まさしく「うさぎ追いし あの山 こぶな釣りし かの
川 夢は 今も めぐりて」だな。
<平成23年6月>



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2011年05月17日


27
コゴミだぁ

  
ゼンマイと似ているけどゼンマイじゃないよ!。コゴミだよ。煮て良し、炒めて良し、揚げて良し、浸して良しの
山菜の王者だ。私は、これが一番好き。料理のバリエーションが豊富なのだ。

今回は特に、私のスペシャル料理法を伝授しよう。(コゴミだけは他人には料理させないのだ)
1.軽く熱湯で煮たあと、水で冷まし、包丁で2〜3センチ程度に切り刻む。
2.油で炒めながら醤油と、味醂と、ダシの元で味付けをする。
3.仕上げは、冷蔵庫で冷ましてから食する。よって次の日が食べ頃とするのだ。

美味いよ





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2011年05月09日

35
白木の芽(コシアブラ)
栗生沢では、この「白木の芽」と「たらの芽」は、かつては食する習慣がなかった。木の芽を食べるという文化が無く、私が食べたり採ったりしていた山菜というとワラビ・ゼンマイ・ふき・コゴミ・ウド・シオデ・エラといったいわゆるシダ草食系ばかり。もっともそれらの量も多かったから木の芽まで食を伸ばす必要が無かったんだと思う。豊かな山の恵みのある山村だった。
 子供の頃、お袋は「栃木の人はいげやしから、こんなものまで喰うんだ」と卑下の言葉を聞いたものゆえ、貧しい人達の食する山菜というイメージ有り。 私が栃木(那須)に転居して、これらを食する人が多勢いて、「本当に、食べている人達がいるんだ!」とビックリしたものだ。しかし、山の幸、山の豊かさのシンボルでもある山菜はシダ系にそのステータスが有る、という意識は今でも私の頭の内に潜在している(笑い)。
 また山菜とは「お浸し」・「漬け物」・「味噌汁」・「煮物」での料理が定番なのに、これらを天ぷらで食するという。20数年前、初めて食したとき、その美味しさにビックリ。いまでは必ず天ぷらにして食する。むしろシダ系山菜より美味しいのだ。今では故郷「栗生沢」でも皆食べるようになってきたようだ。時期は5月のGWの後、1〜2週間の間が採取時期。
 

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2011年04月28日

春が来たーーー!
    アサツキだーーー

11[1](写真は他より拝借)

毎年、春休みになると、残雪をかき出して、ひび割れした手で、よく採集したものだ。
春を告げる野草(ジャパニーズ・ハーブ)「アサツキ
今年も元気なお袋(89才)から、春の便りが届いた。それも段ボール一箱分。
一気に食してしまった。私は大食漢である。根の白いところに甘味があり、とても美味。
お浸しにして、水を片手に醤油とマヨネーズで、食する。腹一杯に、
んんんんんんnーーーーー幸せ!
寒さが白い部分を作るので、雪が降らない地域では、この白い部分が出来ない。
栃木の那須在住の私の所でさえ、スーーと緑色部分が伸びてしまうので食には余り適さない。
よって、雪国のみの産物である。
採集期は3月から4月です。
希望者は連絡を!!

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2011年02月26日

img-Y01214003-0001南会津町(田島)教育委員会発行の250ページからなる冊子だ。著者は石川純一郎さんだ、うれしいね〜。村出身者ならば必ず1冊は買い求めておくべし。自分のルーツ・古里の資料編だ。

 先祖は何故に、この地に住み着き、またどのような暮らしをしてきたのか等、想像がかき立てられ一気に読んでしまった。

ーーーーーーーーー

本文中で興味のあったところを自分の記憶で憶測してみた。
*親族呼称
ジーヤ、バーヤ、トーチャン、カーチャン、オンツァマ、オバサ、アンツァ、アネ、アネサ、
*親族名称
ゴテ、カカァ、セナ、シャデ、コメラ、バッチ
*人称=相手の呼称
(目上)オメー、オメラ、(目下)ニシ、ニシラ、
<会話例>
「ニシ、誰だ?」(あなた、誰?)
「オレ、孝次だ」(俺、孝次)
「なぁーんだ、孝次アンツァが」(なんだ、孝次兄か)
「ところで、オンツァマは今何やってるんだ?」(ところで、おじさんは今何してる?)
「オンツァマ?あぁジーヤのことか」(おじさん?あぁ爺さんのことか」
という感じです。

栗生沢の代表的な方言には以下のものが有ります。
◎ ニシ(おまえ、あなた)   ハイット(ごめんください)
ジャンボくった(葬式になった) カビダレモチ(川で転ぶこと)  コイ(疲れた)  ケロ(頂戴) 

<生活編>
 山の幸に恵まれていたようだ。畑は女に任せ、男は山仕事が主。水田が始まったのは用水を村の中に引いた明治23年から。
炭焼きと狩猟が盛んで、特に熊ブチは有名だったらしい。そういえば子供の頃、田島町にでると、よく「栗生沢の熊」と馬鹿にされたものだった。それが何故だったのか、この本を読んで納得。そうだったんだ。

 熊撃ちをしていたのは湯田茂、湯田友治、湯田元、湯田喜志、湯田清八とある。湯田元は私の祖父(じーや)で明治の人だ。そう言えば実家には火縄銃と熊用の槍2丁が有った。鹿の角で飾ってあったから良く覚えている。

 熊の猟法は、その祖父(じーや)から「冬、熊(シシ)が寝でいる穴の入口を太い棒で横に遮ったあと、棒で穴を突っつくんだ。そうすっと熊が起きてでてくんだげんじょ、入り口に横棒があるから棒をたぐって仁王立ちとなっちまうんだ。その時、この槍で月の輪をめがけて刺し、仕留めるんだ」と、こんなかんじで聞いていた。「おっかなぐねぃのが?」と聞くと「おっかねぃ、よりも面白い」と話してくれたものだ。

 冬の動物性タンパク質はこの熊肉で補給。熊肉の食感は、堅く、噛み切れず、油が多く、そして臭いのだ。この臭いのため犬は唸るだけで食べない。熊の胆は高価、一個、当時6万円で売り買いされていた記憶がある。今の金額で換算すると50〜60万円相当額だ。冬の貴重な現金収入、皆で山分けしていたようだ。


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2011年02月08日

村の起源は、依然不詳。だが発祥形態は、おおよそ、つかめた。以下の図が、それらの形態図。
会津中街道が江戸への街道として使用されていたとき、同じ湯田性を家ごとに区別するために使用された屋号だ。空白の家の屋号が分からない。誰か知っている人がいたら連絡が欲しい。

img-Z16153757-0001



yudakoji28 at 09:39コメント(2)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事  この記事をクリップ!

2010年12月16日

2010年平成22年に「我が偉大なる母、カツヨ」の米寿祝いを挙行した。

 大正15年5月19日、湯田繁義、リノの長女として栗生沢で生を受け、栗生沢育ち、20才で湯田一吉と結婚。34歳の時、一吉が片足切断という事故に遭い、以後、身障者を抱え、女手一つで3男2女を育てあげるという艱難辛苦の「極貧人生」ど真ん中を生き抜いて生きた強者
私は、そんな環境で育った上から4番目の息子です。
img-Z16162635-0001

yudakoji28 at 16:47コメント(0)トラックバック(0)栗生沢帰省  この記事をクリップ!

2010年10月12日

やっと、やっと、というか、ついにGoogle map に栗生沢が出た。
待望の空中写真だ。故郷の家は!畑は!田んぼは!山は!
これまた懐かしく、想いが、ノスタルジー。
一軒一軒の家の名前が言えたら、記憶はまだ健在なり。img-X08133148-0001    

yudakoji28 at 15:38コメント(0)トラックバック(0)栗生沢なんでも  この記事をクリップ!

2010年09月24日

尻上がりの独特な獅子笛の音は、故郷「栗生沢」の音そのものだ。この動画を見て、懐かしくて涙する者もいるだろう。懐かしき顔ぶれ、名前が出るかな?


続きを読む

yudakoji28 at 18:08コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子  この記事をクリップ!

2010年06月14日

決め2!昨年に続き、2度目の三ツ獅子見学。完成度が高く、熟練された舞に仕上がっていた。昨年は久方の舞に感動し、今回は完成度の高さに感動。まさに芸能の域に達していた。歌舞伎要素で言う、舞う間の取り方、手足の切れリズムに数段と丁寧さが加味され、上手い。!(^^)!
その上達ぶりに、うれしさ倍増!感謝!感謝!の連続。故郷を守る意気の高さに、その素晴らしい心に「ありがとう」の言葉しか出ない。感無量とはこのことだ。
!栗生沢!
!三ツ獅子!
また、獅子舞はなんと言っても神社の背景とマッチして絵になるのだ。なぜなら村で昔から不変なのはこの境内だけだからだ。

入場時の舞「岡崎」「怒りの舞」「庭総見」など⇒地固めの舞。大夫獅子と雄獅子が交互に舞を競い合う。
怒りの庭四方堅め










雌獅子と大夫獅子との密会⇒大夫獅子と雄獅子の対峙⇒勝敗を決す。
でーと対面熱闘






「ごめんなさい」の謝り⇒仲直り巻寄せ    <遺伝子は後世に脈々と>
あやまりなかなおり遺伝子達






獅子頭が重いため、このような装備で舞っていました。精悍な演舞ヒーロー達の名前は
左から 相原盛和   湯田善吉  湯田健一 でした。 
たいゆじしめじしおじし







昨年秋の動画だよ 



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2010年06月06日

「村おこし事業」をこのブログで準備中!
第一段の発表!!
以下の写真のごとく只今7月中旬に出荷できるよう育成中。
奥会津高原ゆえに太くて柔らかいアスパラです。宅急便にて産地直送が可能です。ミネラルを多く含んだ自然食品の数々を次々と発表していきますのでご期待ください。
アスパラ畑


yudakoji28 at 16:59コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の物産品(直販)  この記事をクリップ!

2010年05月21日

神社鳥居我が愛すべき村「栗生沢」。今年(平成22年)のお祭りは6月13日(日)だ。
※例年6月の第2日曜日となっているらしい。

前日が前夜祭となっていたのだが、かつてのように夜、神社に拝殿し酒を酌み交わしながら獅子舞を舞うということは無く、当番の者が数名神社に上がり神主からお祓いを受けて終わり、帰宅するそうだ。

お祭り当日は朝9時に村人の主達総員が神社に上がり、五穀豊穣を主とした詔を神主から祓い清め頂いて一連の儀式を済ませると、10時からいよいよ三匹獅子が登場・演舞となる。見たい人は朝10時までに村の神社まで詣でてください。
午前中に演舞の前庭が神社に奉納されると、
午後1時からは、クライマックスとなる後庭が
お党家の庭で演じられる。今年は村の駐車場にて上演される。(馬車屋の前)
あやまり
雨が降らなければ良いが…………。

懐古と出会い だ  


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2009年09月29日

朝6時出発。今日はどうして会津まつり1も、なんとしても、見たかった会津祭り。娘二人と孫一人を連れて、会津若松へ。
早かったため城内の駐車場へ駐車することができた。NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝役とその妻役の2人が来るというせいも有ってか城内は、人垣で一杯。頭の中が「天地人」埋まっていただけに、チョットとまどいが
…。
会津は幕末の悲劇が永遠と観光の基盤なんだと再認識させられた。

「新撰組」と「白虎隊」そして「娘子隊」

豪華絢爛の武者行列を見た後、久しぶりに武家屋敷へと足を運ぶ、西郷家老宅だ。「でかい」。

おふくろと墓
午後2時に会津若松を後にして、母の待つ実家南会津町栗生沢へと車を走らせる。途中、お墓にあげる花と線香を買い3時半ごろ実家に到着。
 お袋と一緒に写真を撮る。
湯田カツヨ(87才)、いたって元気。今はやりの認知症の気配など、全く無し。頭は明晰、至って元気。この村生まれでこの村育ち、この村が世界の中心であり世の常識の中枢と思っている。お袋の話は、このブログの大切な題材。歌はオンチで歌わないが白虎隊の唄は、しっかり音程を守って歌うことができる。50年ぶりに聞いた「♪アラレのごとく乱れ飛ぶ、敵の弾丸〜♪」と、私が5歳の時に母から聞き覚えた唄だ。親父からは詩吟を習い、お袋からは唄を習った。それ故、会津の唄は、50年経った今でも、鮮明に歌うことができる。夕方5時、実家を後にする、故郷をハミングしながら。



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2009年06月15日

唄笛小雨煙る梅雨時の6月14日(第2日曜日)行って来ました久しぶりの栗生沢のお祭り。

到着がちょうどお昼時、昨夜と午前中は神社にて奉納の舞があり、たいこ午後からは、お党屋番の家で後庭の舞が披露された。

10数年ぶりの獅子舞に感極まっってしまった。

     皆 元気だ!    

 過疎化の四方堅め村、高齢の村、にもかかわらず、「皆、元気」一杯!、もう、これだけでも充分。三匹獅子も数人の若者がしっかりと後継し伝承していた。

しかも30年ぶりに「巻寄せ」が復活。舞に激しさが加わった。スクワットが中心となった舞だけに、相当の体力が要求される。昔の人の体力に驚愕、今となっては大変な舞だ。

 ゼー、ゼーあやまり、ハァ、ハァ、に見てまきよせいる人の笑みがこぼれる。至福の時だ。伝統が息吹いていた。簡略もされずに、しかも古舞まで復活とは、「この村出身で良かった」と誇りに思えた瞬間、村人達に感謝、感謝、だ。

笛の清さん70才、息が続かず、短く切りながらの笛の音、昔は力強い音だったのにネ。良隆さんの舞は、もう見れない。哲治に至っては、世話役になっていた。真新しい黄色のタスキを掛けデビューしたあの初々しい舞は、つい、昨日のように脳裏に浮かぶ。皆、年老いてしまった。それでも一徹とした頑固さが健在だったのには、嬉しかった。そろい踏み

 村人に親しまれ愛され長く伝わってきた三匹獅子、三ツ獅子、

         永遠なれ!

神社鳥居

神社本殿

 

 

 

http://peevee.tv/videolist.jspx/method/local/maxperpage/10/page/0/tag/%E6%A0%97%E7%94%9F%E6%B2%A2%E3%81%AE%E4%B8%89%E3%83%83%E3%83%84%E7%8D%85%E5%AD%90 ←動画も見れるよ!

      http://www.interq.or.jp/leo/f2000/

 



yudakoji28 at 14:01コメント(5)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子  この記事をクリップ!

2009年05月18日

  キリシタンの隠れ村里「栗生沢」。その資料となるべく「転切支丹類族書上帳」、それに今にも残る慣習の数々。

「キリシタン」(=切支丹)の別な呼び名「クリスチャン」からの由来で、「クリス」の漢字表記には栗栖、栗須、栗巣等があり、栗生は、その「クリス」から派生した言葉。

 これほどまでにキリスト教への信仰が強く深かった栗生沢。しかし私の知るところでは現在の信者は皆無。その流れも欠片もなく、絶滅状態。ただお彼岸の行事が無いという慣習が残っているだけ。田島町では今でも結構キリスト教は広く伝わり、教会やら幼稚園やらと有るのだがね。

そういえば先祖への供養としてのお墓参りは、年に一回、お盆の時だけ、しかも午前中に行っていた。供養物はお茶、団子、線香、お花などだが、不思議なことに、お墓の前で腰をかがめ手を合掌して拝むということをしない。持ってきた供養物をお墓に沿えて巡るだけなのだ。とても粗雑なお墓参りなのだが村人全体が同様なので、子供の時から、お墓参りとは、そんなものと思っていた。

 

 またまた次期への抱負となってしまうのだが、村にまつわる資料の全部を現代語訳した上で記録、掲載してみたいものだ。これはきっと私が70才を過ぎた頃の作業となってしまうような感がする。膨大な時間がかかるから、だから。。「いつの日にか」ってネ。



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自宅欄干

2階の手摺に刻まれている屋号、旅籠としての名前か?、神社の前の6〜7軒ほどには次の名前が残っている。

中村屋橋本屋加登屋、越後屋、若松屋、大黒白木屋等々だ。

写真は私の実家の写真。龍の頭3個の上に右に漢字、左に大和仮名で「はしもとや」と刻銘されている。

古よりの記録が新築、増築で消えていくなか、貴重なもの、大切に残していきたいものだ。

 



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官軍墓 

5月のGWに帰省。早速お墓を散策。いくら探しても見つからない。するとお袋が「何を探しているの?」と聞いてきた。事情を説明すると、依然、お墓の廃合整理するさい、無縁仏にもかかわらず湯田旭さんが「かわいそうだから」と自分の墓地に移動、手作りながら写真にある墓票を立てたそうだ。
墓標に名前は無く、ただ「官軍の墓」とだけ記銘してあった。でも気持ちが嬉しいね。この機会に覚えておこう
 その人の名は西軍の田島方面軍の将であった芸州藩外様歩行横目組「山本他人輔」。の人だ。慈恩寺境内には「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がある。また広島県にある芸州藩籍名簿にも彼の名前が乗っている。没年は慶応4年(1868)9月14日。殺ったのは(手柄をあげたのは?)湯田仲吉、湯田百太郎他村人数人。誰のどの家のご先祖かな?



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2009年04月06日

簡略化が進む葬式は年々画一化しているが、田島地方では、喪主は依然、かみしも・はかまを着用している。数年前までは額に白の三角紙をつけていたのだが…。そうそう、このへんでは葬式のことを「ジャンボ」と呼ぶんだ。今回は兄嫁の父親のジャンボだった。享年88才

ニッカン(納棺)は、生豆腐を食し、死者には手甲、脚絆、杖、六文銭(60円)、頭蛇袋を、左前に白の着物を着せるという習慣は、今回は立ち会えなかったがおそらく、今でも行われているはず。考え方として葬式は縁起をかつぐため在来のしきたりに目立つ変化はあまり好まれないからだ。

告別式には、チョット戸惑ってしまった。参列者には「きかせ」と「ひら」があり、受付で「きかせ」は名前が掲示されていた。自分の名前を見つけ「きかせ」ですと言い香典を出す。すぐに親族が待つ式場へ、式の始まる前に線香をあげ親族へ弔の挨拶をする。いったん式場を出て、しばらく式が始まるまで外で待つ。この間旧来、遠来の親交が葬式で引き合わされ、しばしの談笑タイム。式の始まりは、死者との近い順から名前を呼ばれ、順々に着席していくというもの。一通り縁者の着席が終えると、後は順不同に入場、着席し、式が開始された。

4月3日、依然、奥会津は雪景色、山並みの稜線は灰色で描かれモノトーンの世界。だが、春は間近に感じる。

※死後の世界は、「無いより有ったほうがいい、なぜなら、その方が都合がいいし、気持ちも癒されるから」と考えている。自分の感ずるままに。



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2008年12月12日

正月14日頃だったと思うが、夕方からツチンボ(わら打ちの棒)に縄を付けて家の周囲を引いて回った記憶がある。お袋から、これをすると畑に害虫である長虫と蛇が来なくなるという。

「ツチンボのお通りだ、長虫くんなよ、山の神ござれ」と繰り返し歌いながら、夕方の縛れるような寒さだけを強烈に覚えている。このツチンボで地面を叩くと蛇が出なくなると言われ、かじかんだ手でツチンボを持ち地面を叩きながら家の周りを歩いたものだ。あれは何だったんだろうと、そして子供の次男の俺が何故?と。辛くイヤな行事だったが家のことを思うと願いを込めながら必死になって歌いながらツチンボのお通りを行っていた。他の家でもやっていたのだろうか?、それとも我が家だけだったのだろうか?



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2008年12月05日

水無川の上流にある栗生沢村。なぜか5月5日の端午の節句に鯉のぼりを揚げないのだ。水もこの日は飲んではダメという。このいわれは、いにしえよりの習慣だ。鯉のぼりは田島町にある中学校へ通うようになって初めて目にしたものだ。

 亡き父親からの話によると、この日に田島のほうで歓声があがり、これを援軍だと思ってのぼりを揚げたが、実は官軍だった。この官軍に気づかれ押し攻められた故、会津軍は山中に逃げ込み上流から毒を川に流したそうな。。。それゆえ、鯉のぼりをあげることと、この日は水を飲むことが禁止という、この慣わしが今日まで残っているのだという。

確かに戊辰戦争における栗生沢の戦いの記録はある。(記録「会津戊辰戦争百話第七十一話」より)。ただし、期日は9月10日、これは今日の10月10日にあたるので、話とは時期が合わない。

他村の「鯉のぼりを揚げない村・地域」を探る。

福島県南会津町栗生沢村以外では、栃木県の湯西川村、埼玉県の神泉村がある。栃木の湯西川では似たような話で「平家落人伝説」として今に残っており、また埼玉の神泉村でも似たような話で「平将門伝説」が有り、ともに今日でも鯉のぼりを揚げない習慣を今に残している。栗生沢、湯西川、神泉の3カ所では、鯉のぼりは「不吉」を呼ぶという慣わしを抱えているのだ。この3村の共通点は何か。ただ言えることは、ともに平家に関する流れを持っていること。栗生沢も先祖は平家落人の可能性が高いと言うことだろうか。火の無いところに煙は立たないとも言うので、その可能性はとても高い。ただ伝説ゆえ、それらを正す根拠がない。



yudakoji28 at 08:21コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭  この記事をクリップ!

2008年11月12日

dbc8a2fa.jpg     田島町立栗生沢小学校

 撮影は翌年の春3月のころ。昭和36年に工事が着工し昭和38年完成。(写真は新築当時なので、真新しい。45年後の今はボロボロ)。昭和40年4月、田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立。

 

昭和40年に第1回目の卒業生を送る。その卒業生の写真がこれである。  

卒業式<卒業名簿>湯田信隆、湯田吉美、湯田文和、湯田孝次、湯田輝義(男5人)、湯田幸恵、相原富子、伊野瀬幸子、相原ひろの、佐藤セイ子、湯田ノブイ、湯田千歳、湯田友子、湯田孝子、星年子(女10人)

=【合計15人 15人中10人が湯田の姓】=

山奥に閉ざされた栗生沢村の明るい未来を示唆した卒業式に村を挙げての行事となった。校歌も、この時発表され、晴れがましく歌い上げられた。

栗生沢小学校校歌(山田直美先生;平野増雄先生作詞)

一、遙かに仰ぐ男鹿岳の    峰は希望の朝ぼらけ

   みんなの笑顔美しく    光る言葉に呼びかける

二、清く流れるせせらぎに   声はずませて遊ぶとき

   みんなの歌はほがらかに  響く瀬音に呼びかける

三、長い歴史を育んで     遠く伝わる三ツ獅子に

   みんなの夢はたくましく  輝く未来に呼びかける

涙しながら歌ったものだ。今、書いている最中にも頬をつたわつものがある。苦労して、苦労して、ここまで来たんだという万感の思いが子供心に感じ取っていたのだろう。この栗生沢小学校として独立した際の学童在籍数は全校で104人と記憶している。今は残念ながら廃校となってしまった。

山田先生と平野先生が、毎日毎日黒板に詩を書いては消しての繰り返し。このとき知った詩の作り方、7・5調での言葉組み合わせというものを。

小学校1・2・3年間は村中央にある分校で複式学級。今のバス駐車場だ。木造2階建校舎。冬になると雪が深くなるため先生方は村に分宿。私の家では毎年2人の先生が宿泊していた。本当に雪が深かくて家の軒先まで積もるのだ。およそ2m位となるのかな。暖房は薪ストーブ。お昼の弁当をこれで暖めるのだが4時間目の授業となると弁当に入っているタクアンの匂いで教室が充満する。冬の食料はタクアンと梅干しのみ、どの家も貧しかったのだ。こうして長い冬を越していた。春が本当に待ち遠しかった。

3年生の時になると、いよいよ新校舎の建築が始まり、建築造成中の新校舎をよく写生に行ったものだ。4年生の時、引っ越し。しかし校舎の落成はなったものの校庭ができていない。予算が無いという。それからの1年間は、全校生で校庭整備、石拾いに費やされた。校庭を周囲する丘は、この時拾われた石が集積されてできたもの、5年生の時、やっと使用に耐えられるようになった。あわせて脱脂粉乳のミルクが給食され栄養補給が成されるようになってきたのだ。そして、この年が田島小学校での最後の卒業式となる。栗生沢分校在校生の代表として私が田島小学校までツギハギの服を着て、恥ずかしい想いをしながら出席したから良く覚えている。特に私の家も貧しかったのだ。一人で初めて村を出た日、それは田島町は都会だったのだ。今となっては嘘のような話だね

6年生になると村にもTVが普及しだし、私の文明開化が一気に訪れる。そして晴れて栗生沢小学校独立第1回卒業式を迎えたのであった。。



yudakoji28 at 10:17コメント(0)トラックバック(0)栗生沢なんでも  この記事をクリップ!

2008年11月11日

11月4日あまりにも天気が良くて爽快な秋空が、お袋とのドライブを誘った。仕事を中止して、お昼頃、出発。塩原を抜けたあたりから車のバーッテリーに異変が、走行には別段影響がないだろうとそのまま故郷路へ、三依〜横山あたりにさしかかったところでアラーム音が、ヤバイと思いながらも、そのまま走行。県境の山王トンネルでライトを付けた瞬間、アラーム音がけたたましく鳴り出した。アクセルを踏んでも出力が弱い。たまたま下り道だったか良かったもの、そのまま道まかせに走行、トンネルを無事抜けてライトを消したが、すでにエンジン出力は無くなっていた。しばらくその状態で道の駅まで、さすがにここで走行を止めようと思いハンドルを道の駅に切ったとたんエンジン停止。しかし慣性でそのまま駐車場へ無事駐車。「まぁ、こんなこともあろうよ」ってな感じでそこで一服。周囲を見ると紺碧の青空と雄大な紅葉に圧倒され、感激。一杯の蕎麦を食べ、タクシーを呼んで栗生沢の実家へ。誰もいない。迎えは夜になるみたいだから今日はゆっくり村を散策しようと、「せっかく」を有意義に味わった。村の中を歩くも人っ子一人見受けられない。ただシーンと静まりかえっている。稲刈りも終わり、ただ冬の到来を待つだけの深まりゆく秋のつかの間。聞こえるのは「シーン」という音だけ。本当にシーンという音はあるんだなぁと実感する。一通り村を回りながら、少々風情の変わったところを見て過去の幼少年期を懐古する。自分だけの持つ特別な想いに郷里愛がひたされる。家に戻るとお袋が畑仕事から帰っていた。畑の土手に座りながら長話。これがまた良い。お袋独特のイントネーションと言い回しに気持ちが安らぎ癒される。もっともこの噺調子で育ったのだから当たり前か。夜、兄貴が帰宅。久しぶりの兄弟話しに花が咲いたものだ。今年一番の幸福なひとときだったような日でした。車の故障に感謝です。

 



yudakoji28 at 08:51コメント(0)トラックバック(0)栗生沢帰省  この記事をクリップ!

2008年11月10日

(歴史)

1590年、豊臣政権下に近江出身の蒲生氏郷が藩主として会津に赴任。このとき幸福の言葉「松と鶴」が地名に用いられ会津若松と鶴ガ城の誕生となった。藩は盛況を極め会津100万石の大藩となる。しかし実はこの蒲生氏郷、キリシタン大名だったのだ。蒲生氏郷の姉が南山鴫山城(田島)の城代であったがためキリスト信仰は南会津、特に栗生沢と水無等に多く深くの信仰していった。

1614年、徳川幕府はキリシタン禁止令を出しこれを迫害。栗生沢は村全体で転宗・改宗としながらも実は隠れキリシタン部落となっていた。資料「転切支丹類族書上帳」には栗生沢、水無の村民が多く記帳されている。

1637年、島原の乱が起き、そこから逃亡してきた家司馬将なる人物と水無のキリシタンの長である横沢丹波の家で外国人宣教師ともども捕らえられ、逆さ磔・斬首によって殺された。(記録書「会津事始」より)

(湯田の姓についての考証)

隠れキリシタン村「栗生沢」という下地のもと、湯田の名は隠れキリシタンとなるために、あえてイエスの裏切り者「ユダ」を名乗ったと思われる。なぜならキリシタンの痕跡のあるところには必ずある名字「湯田」なのです。明治6年に施行された「名字苗字必唱令」より、遙か昔から、湯田の姓は残されてはいる。古くは慶長8年(1603)の「言上之事」という願書には湯田左近という名が代表で記載されてある書がある。時期的には蒲生氏郷時代、田島城代の小倉作左衛門に提出された書である。また文化3年(1806)湯田右衛門なる板碑も峠の祠に現存し、村の大山神社には幾枚かの板碑が納められている。名字を持つことが許されていない時代にです。さらに幕末の戊辰戦争には村長;湯田久左衛門他、湯田宇平、湯田佐吉、湯田仲吉、湯田百太郎なる名前が上がっている。これを見るに村人全員が湯田を名乗っていたようだ。

隠れキリシタンを今に伝える事例としては、村にはお寺が無いということ。栗生沢と水無にだけお寺が無いのだ。(水無では田圃の中からマリア観音と見受けられる石像が近年、発見された。)それゆえ、9月23日のお彼岸という行事がこの村には今でも無いのだ。さらに、部落の紋所は皆、十字架を思わせる角立ち四つ目のマーク、この紋所は薩摩の島津藩と同じだが栗生沢独自の物。村出身者なら誰でも知っている紋所です。

キリシタン禁制の江戸時代に苗字を持つことが許されていたのは村長だけ、そしてキリシタン弾圧から身を守るために新約聖書の裏切り者とされているユダをあえて名乗り「転び切支丹」に見せかけたようだ。以来、村全体が湯田一族として今日まで、この苗字を存続させてきた。

 

 



yudakoji28 at 10:46コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事  この記事をクリップ!

2008年11月06日

会津公の写真  新居引っ越しにともなっって古物のほとんどを廃棄してしまった実家だが、この写真はさすがに躊躇したらしく保持していた。神棚の上から、「俺が持っていても、しょうがないから」と私に渡してくれた。歴史に余り関心を持たない兄貴だが、これは大手柄。もうほとんど見えなくなってしまって修復・復元には大変な手間暇がかかる。いつの日にか、と心に刻んで頂いてきた。 この写真は明治初期の頃?に大萱峠を越えて江戸に向かう時、我が家に宿泊していったときの記念として置いていってくてたものだと言う。
「会津の殿様だ」と今は亡き親父がよく語ってくれていた。

img-616110822-0001複写されたこの写真と同じなのだが、我が家に保存してあった物は原写だ。ということは親父の話は本当だったのだ。撮影の日時は、背景が同じだから、きっと幾枚か撮影してあり、そのうちの一枚を置いていってくれたのだろう。

 
 


***ついでに******   
譲り受けた刀(脇差し)の話

30年前に親父から譲りうけた脇差し一刀。その件も、ここに書き記したい。譲り受ける際、田島警察署に届けを出したのだが、その時しっかりとお叱りと警告を受けた。銃刀法違反の容疑でである。発見したとき届けるのが法の決まりなので、今まで秘密に長期にわたって保管していたことが違法だったらしい。そう言われてもねぇ.....。なんとか文化庁からの所持許可を取り付け、この脇差の所持が許された。さっそく郡山市に行き、鑑定と研ぎと最低の装飾をお願いした。30万円ほど費用がかかったが、鑑定結果をお知らせしたい。

制作時代;室町末期(戦国時代)  研ぎ師;河内守国助三代目  刀紋;あばれ刀紋(獅子衣装の裾にある紋様と同じ)と判明。資料を見せながらの説明に充分納得したものだ。

国助にはお弟子さんも多く、しかし柄元に刻んである筆跡で誰が作ったかは確かによく判明できるように刻銘されている。刀の値段は波形でわかる。

平刀=一本の線が走ったもの、主に足軽が所持(時価100〜300万円程度)

波刀=波状に刀形があるもの、扶持武士が所持(時価300〜500万円程度)

鈎刀=鈎型に刀形があるもの、上級武士が所持したもの(時価700〜3,000万円程度)

で、どうやら三種類があるようだ。親父から譲り受けた刀は波が荒れる刀紋、しかも刀身が、えらく反っている。これは貴族階級が所持していたもので、刀身の反り型は実戦用では無いとのこと。なぜこんな物が奥会津に?と。時価不明。

その刀は、その後どうなったかと言うと、実は今となっては、ものすごく後悔しているのだが、事業資金確保のため売却してしまった。300万円で。トホホだネ。だから、今現在では誰が所持しているのか全く不明。30年前の話です。



yudakoji28 at 15:27コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事  この記事をクリップ!

2008年10月10日

三匹獅子の演舞は文官派の大夫獅子と武官派の男獅子、そしてその妻の女獅子による五穀豊穣を祈願した舞の定番「男と女の愛の物語」である。

(物語)大夫獅子と男獅子は親友同士、その妻の女獅子の三匹は仲良く暮らしていた、が、やがて女獅子は大夫獅子に心を傾むけ出す。いわゆる浮気だ。大夫獅子と女獅子の二匹は、目を盗んではデートを重ね、戯れ会っている。だが、やがて男獅子はそれに気づき、怒り狂って山をかき分け、大夫獅子をやっつける。大夫獅子は三度の詫びをお獅子に入れ、許してもらい元のように三匹仲良く暮らしたという、メデタシ、メデタシの物語。

基本形の「前庭」と実力者が演ずる「後庭」という二部構成。見るには後庭のほうが素晴らしい。俗に言う「かっこいい」のだ。笛太鼓の調子がリズムカルで激しく、舞の方も力強く迫力があり、豪快・勇猛なのだ。感動を誘う。

 



yudakoji28 at 11:22コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子  この記事をクリップ!

2008年10月07日

村祭りに奉納される三ツ獅子の演舞

大山神社の神主とともに家主達がお宮に登り、社殿前にて拝む。その後30分おきに1番太鼓、2番太鼓、3番太鼓が村中に鳴り響き、獅子の渡り拍子が始まる。渡り拍子とは行列を作っての入場で、先頭は高張り提灯、やま2つ、笛、大夫獅子、め獅子、お獅子、歌、やま2つ、高張り提灯の順でおこなう。安全ぼめ、橋ぼめ、鳥居ぼめなど、それぞれ舞とともに歌が入る。神社を登ったところで庭入りが入る。次が庭見となるわけだが、ここで座り歌が入り、四方固め、流し、立ち歌、と続き、いよいよやま4つが入り三匹獅子の物語が始まりクライマックスへと入っていく。

 



yudakoji28 at 13:14コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子  この記事をクリップ!

2008年10月06日

獅子頭由来

栗生沢の三匹獅子は、最奥の村で伝承されてきたせいか古風のまま今日まで保持されてきた。村人は「三ツ獅子」と呼んでいる。安政4年(1857)7月に中荒井村から伝授古文書ともども、そっくり引き継いだ。

 

村の鎮守「大山神社」歴史

日光東照宮建立の際、地固めに舞ったという伝承があり、そのとき遅刻をして、わらじのまま舞ったという。それ以来今日までわらじで舞っている。大正9年(1919)7月16日付けで「三ツ獅子起源概説」という巻物を受領したという記録がある。この三ツ獅子は厄除け、火伏せの信仰を持っている。

祭事神社に入る行列

村の鎮守「大山神社」に疫病よけ、火伏せとして毎年奉納されてきている。祭礼の前夜と当日に、また旧盆には「あらため」と称した若者育成の舞が催される。、その他には随時、火伏せの獅子舞として、建設の地固めや落成などの時にも舞っている。習得には笛7年、獅子5年、歌3年を要していたという。舞は勇壮にして激しく、笛の音色は力強く、し社殿合掌り跳ね上がり調と独特だ。前庭、後庭でおおよそ2時間の演出となる舞だ。

不思議な歌??

 獅子舞の歌は全部で48種類。独特の言い回しがあり、聴いている人には全くわからない。皆同じに聞こえてしまう。もともと獅子舞は各地を巡行して各地の情報を伝える役目を帯びていたのだ。今で言うスパイだ。それゆえ情報を歌に託し、聴衆には判らないよう歌って伝達していたという。歌は一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」だが、そのうちの適当なものを挙げてみよう。五、七、五、七、七調の和歌だ

(歌はじめ)友達の引いてなされしこの獅子を、我等が被るご免くだされ

(庭入りの歌)舞り来て四方の庭を眺めれば四方清めの枡形の庭

(獅子転びの歌)天神の龍の駒石に獅子がつまづきご免くだされ

(安全の歌)天は海、星はさざなみ、月は船 かづらうの漕がうぞよ達

などなど、しかし一様に「まぁ〜はんが、あぁ〜はんが、え〜」なのだ。子供の頃から、節は良い旋律なのだが歌詞の意味がちっともわからなかった。歌は是非とも覚えたいのもだ。いつの日にか。

 



yudakoji28 at 11:05コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子  この記事をクリップ!

2008年10月02日

稲刈り、天日干し、脱穀が終わった秋も終わりの頃、村中央にある分校の敷地で、村の子供、若者を中心とした村相撲が奉納されていた。あの寒さを思い出すときっと10月末か11月初旬の頃だったように思われる。

大量に集められた柴木に火が付けられ2〜3mもの火炎をあげながら、その明かりと暖のもと裸になり、幾番となく相撲が続けられていた光景を思い出す。子供達はそれぞれが事前にペアーを組み、1番だけの相撲。勝ち負けに関係なく褒美は柿2個。これが欲しくて出場したものだ。呼び出し、行事などもしっかりしていて本物の様。出場する若者達の四股名は村周囲を取り囲む山河の名が付けられていた。若者達の相撲は、これは大変である。序盤は3人抜きだ。これは早々に勝者が決まるが、本番の5人抜きは、壮絶。勝敗の決着がつくまで延々と続けられる。深夜に及ぶこともしばしば。将に大相撲だ。よって本当に強い足腰と体力、そしてスタミナを持った者だけが勝ち得る、真の強者すなわち村の絶対王者選定相撲となっていた。翌日はきっと足腰が立たず体が壊れる一歩手前の状態の心地良さに浸っていたことだろう。

この相撲奉納が終わると村は長い厳冬に埋もれていく。

 

 



yudakoji28 at 09:08コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭  この記事をクリップ!
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