栗生沢 我が故郷

湯田孝次の故郷「栗生沢」への帰省日記と栗生沢の三匹獅子(三ツ獅子)、会津中街道、栗生沢の行事、栗生沢の歴史など諸事をつづる。

会津まつりとお袋

朝6時出発。今日はどうして会津まつり1も、なんとしても、見たかった会津祭り。娘二人と孫一人を連れて、会津若松へ。
早かったため城内の駐車場へ駐車することができた。NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝役とその妻役の2人が来るというせいも有ってか城内は、人垣で一杯。頭の中が「天地人」埋まっていただけに、チョットとまどいが
…。
会津は幕末の悲劇が永遠と観光の基盤なんだと再認識させられた。

「新撰組」と「白虎隊」そして「娘子隊」

豪華絢爛の武者行列を見た後、武家屋敷へ、西郷家老宅だ。「でかい」。

おふくろと墓
午後2時に会津若松を後にして、母の待つ実家南会津町栗生沢へと車を走らせる。途中、お墓にあげる花と線香を買い3時半ごろ実家に到着。
 お袋と一緒に写真を撮る。
湯田カツヨ(85才)、いたって元気。今はやりの認知症の気配など、全く無し。頭は明晰。この村生まれでこの村育ち、この村が世界の中心であり常識と思っている。お袋の話は、このブログの大切な題材。歌はオンチで歌わないが白虎隊の唄は、しっかり音程を守って歌うことができる。50年ぶりに聞いた「♪アラレのごとく乱れ飛ぶ、敵の弾丸〜♪」と、私が5歳の時に母から聞き覚えた唄だ。親父からは詩吟を習い、お袋からは唄を習った。それ故、会津の唄は、50年経った今でも、鮮明に歌うことができる。夕方5時、実家を後にする。

行って来たぞ!お祭りに

唄笛小雨煙る梅雨時の6月14日(第2日曜日)行って来ました久しぶりの栗生沢のお祭り。

到着がちょうどお昼時、昨夜と午前中は神社にて奉納の舞があり、たいこ午後からは、お党屋番の家で後庭の舞が披露された。

10数年ぶりの獅子舞に感極まっってしまった。

     皆 元気だ!    

 過疎化の四方堅め村、高齢の村、にもかかわらず、「皆、元気」一杯!、もう、これだけでも充分。三匹獅子も数人の若者がしっかりと後継し伝承されていた。

しかも30年ぶりに「巻寄せ」が復活。舞に激しさが加わった。スクワットが中心となった舞だけに、相当の体力が要求される。昔の人の体力に驚愕、今となっては大変な舞だ。

 ゼー、ゼーあやまり、ハァ、ハァ、に見てまきよせいる人の笑みがこぼれる。至福の時だ。伝統が息吹いていた。簡略もされずに、しかも古舞まで復活とは、「この村出身で良かった」と誇りに思えた瞬間、村人達に感謝、感謝、だ。

笛の清さん70才、息が続かず、短く切りながらの笛の音、昔は力強い音だったのにネ。良隆さんの舞は、もう見れない。哲治に至っては、世話役になっていた。真新しい黄色のタスキを掛けデビューしたあの初々しい舞は、つい、昨日のように脳裏に浮かぶ。皆、年老いてしまった。それでも一徹とした頑固さは健在だったのには、嬉しかった。そろい踏み

 村人に親しまれ愛され長く伝わってきた三匹獅子、三ツ獅子、

         永遠なれ!

神社鳥居

神社本殿

 

 

 

http://peevee.tv/videolist.jspx/method/local/maxperpage/10/page/0/tag/%E6%A0%97%E7%94%9F%E6%B2%A2%E3%81%AE%E4%B8%89%E3%83%83%E3%83%84%E7%8D%85%E5%AD%90

      動画を見れるよ!http://www.interq.or.jp/leo/f2000/

 

栗生沢という名前の由来

  キリシタンの隠れ村里「栗生沢」。その資料となるべく「転切支丹類族書上帳」、それに今にも残る慣習の数々。

「キリシタン」(=切支丹)の別な呼び名「クリスチャン」からの由来で、「クリス」の漢字表記には栗栖、栗須、栗巣等があり、栗生は、その「クリス」から派生した言葉。

 これほどまでにキリスト教への信仰が強く深かった栗生沢。しかし私の知るところでは現在の信者は皆無。その流れも欠片もなく、絶滅状態。ただお彼岸の行事が無いという慣習が残っているだけ。田島町では今でも結構キリスト教は広く伝わり、教会やら幼稚園やらと有るのだがね。

そういえば先祖への供養としてのお墓参りは、年に一回、お盆の時だけ、しかも午前中に行っていた。供養物はお茶、団子、線香、お花などだが、不思議なことに、お墓の前で腰をかがめ手を合掌して拝むということをしない。持ってきた供養物をお墓に沿えて巡るだけなのだ。とても粗雑なお墓参りなのだが村人全体が同様なので、子供の時から、お墓参りとは、そんなものと思っていた。

 

 またまた次期への抱負となってしまうのだが、村にまつわる資料の全部を現代語訳した上で記録、掲載してみたいものだ。これはきっと私が70才を過ぎた頃の作業となってしまうような感がする。膨大な時間がかかるから、だから。。「いつの日にか」ってネ。

欄干にあった旅籠名(屋号)

自宅欄干

2階の手摺に刻まれている屋号、旅籠としての名前か?、神社の前の6〜7軒ほどには次の名前が残っている。

中村屋橋本屋加登屋、越後屋、若松屋、大黒白木屋等々だ。

写真は私の実家の写真。龍の頭3個の上に右に漢字、左に大和仮名で「はしもとや」と刻銘されている。

古よりの記録が新築、増築で消えていくなか、貴重なもの、大切に残していきたいものだ。

 

栗生沢にて戦死した芸州藩士「山本他人輔」の墓

官軍墓 

5月のGWに帰省。早速お墓を散策。いくら探しても見つからない。するとお袋が「何を探しているの?」と聞いてきた。事情を説明すると、依然、お墓の廃合整理するさい、無縁仏にもかかわらず湯田旭さんが「かわいそうだから」と自分の墓地に移動、手作りながら写真にある墓票を立てたそうだ。
墓標に名前は無く、ただ「官軍の墓」とだけ記銘してあった。でも気持ちが嬉しいね。この機会に覚えておこう
 その人の名は西軍の田島方面軍の将であった芸州藩外様歩行横目組「山本他人輔」。の人だ。慈恩寺境内には「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がある。また広島県にある芸州藩籍名簿にも彼の名前が乗っている。没年は慶応4年(1868)9月14日。殺ったのは(手柄をあげたのは?)湯田仲吉、湯田百太郎他村人数人。誰のどの家のご先祖かな?

葬式で見る「かみしも・はかま」着

簡略化が進む葬式は年々画一化しているが、田島地方では、喪主は依然、かみしも・はかまを着用している。数年前までは額に白の三角紙をつけていたのだが…。そうそう、このへんでは葬式のことを「ジャンボ」と呼ぶんだ。今回は兄嫁の父親のジャンボだった。享年88才

ニッカン(納棺)は、生豆腐を食し、死者には手甲、脚絆、杖、六文銭(60円)、頭蛇袋を、左前に白の着物を着せるという習慣は、今回は立ち会えなかったがおそらく、今でも行われているはず。考え方として葬式は縁起をかつぐため在来のしきたりに目立つ変化はあまり好まれないからだ。

告別式には、チョット戸惑ってしまった。参列者には「きかせ」と「ひら」があり、受付で「きかせ」は名前が掲示されていた。自分の名前を見つけ「きかせ」ですと言い香典を出す。すぐに親族が待つ式場へ、式の始まる前に線香をあげ親族へ弔の挨拶をする。いったん式場を出て、しばらく式が始まるまで外で待つ。この間旧来、遠来の親交が葬式で引き合わされ、しばしの談笑タイム。式の始まりは、死者との近い順から名前を呼ばれ、順々に着席していくというもの。一通り縁者の着席が終えると、後は順不同に入場、着席し、式が開始された。

4月3日、依然、奥会津は雪景色、山並みの稜線は灰色で描かれモノトーンの世界。だが、春は間近に感じる。

※死後の世界は、「無いより有ったほうがいい、なぜなら、その方が都合がいいし、気持ちも癒されるから」と考えている。自分の感ずるままに。

ツチンボのお通り

正月14日頃だったと思うが、夕方からツチンボ(わら打ちの棒)に縄を付けて家の周囲を引いて回った記憶がある。お袋から、これをすると畑に害虫である長虫と蛇が来なくなるという。

「ツチンボのお通りだ、長虫くんなよ、山の神ござれ」と繰り返し歌いながら、夕方の縛れるような寒さだけを強烈に覚えている。このツチンボで地面を叩くと蛇が出なくなると言われ、かじかんだ手でツチンボを持ち地面を叩きながら家の周りを歩いたものだ。あれは何だったんだろうと、そして子供の次男の俺が何故?と。辛くイヤな行事だったが家のことを思うと願いを込めながら必死になって歌いながらツチンボのお通りを行っていた。他の家でもやっていたのだろうか?、それとも我が家だけだったのだろうか?

5月の節句に鯉のぼりを上げない栗生沢村

水無川の上流にある栗生沢村。なぜか5月5日の端午の節句に鯉のぼりを揚げないのだ。水もこの日は飲んではダメという。このいわれは、いにしえよりの習慣だ。鯉のぼりは田島町にある中学校へ通うようになって初めて目にしたものだ。

 亡き父親からの話によると、この日に田島のほうで歓声があがり、これを援軍だと思ってのぼりを揚げたが、実は官軍だった。この官軍に気づかれ押し攻められた故、会津軍は山中に逃げ込み上流から毒を川に流したそうな。。。それゆえ、鯉のぼりをあげることと、この日は水を飲むことが禁止という、この慣わしが今日まで残っているのだという。

確かに戊辰戦争における栗生沢の戦いの記録はある。(記録「会津戊辰戦争百話第七十一話」より)。ただし、期日は9月10日、これは今日の10月10日にあたるので、話とは時期が合わない。

他村の「鯉のぼりを揚げない村・地域」を探る。

福島県南会津町栗生沢村以外では、栃木県の湯西川村、埼玉県の神泉村がある。栃木の湯西川では似たような話で「平家落人伝説」として今に残っており、また埼玉の神泉村でも似たような話で「平将門伝説」が有り、ともに今日でも鯉のぼりを揚げない習慣を今に残している。栗生沢、湯西川、神泉の3カ所では、鯉のぼりは「不吉」を呼ぶという慣わしを抱えているのだ。この3村の共通点は何か。ただ言えることは、ともに平家に関する流れを持っていること。栗生沢も先祖は平家落人の可能性が高いと言うことだろうか。火の無いところに煙は立たないとも言うので、その可能性はとても高い。ただ伝説ゆえ、それらを正す根拠がない。

栗生沢小学校の第1回卒業生

田島小学校町立栗生沢小学校

 撮影は翌年の春3月のころ。昭和36年に工事が着工し昭和38年完成。(写真は新築当時なので、真新しい。45年後の今はボロボロ)。昭和40年4月、田島小学校の栗生沢分校から田島町立栗生沢小学校として独立。

 

昭和40年に第1回目の卒業生を送る。その卒業生の写真がこれである。  卒業式

<卒業名簿>湯田信隆、湯田吉美、湯田文和、湯田孝次、湯田輝義(男5人)、湯田幸恵、相原富子、伊野瀬幸子、相原ひろの、佐藤セイ子、湯田ノブイ、湯田千歳、湯田友子、湯田孝子、星年子(女10人)

=【合計15人 15人中10人が湯田の姓】=

山奥に閉ざされた栗生沢村の明るい未来を示唆した卒業式に村を挙げての行事となった。校歌も、この時発表され、晴れがましく歌い上げられた。

栗生沢小学校校歌(山田直美先生;平野増雄先生作詞)

一、遙かに仰ぐ男鹿岳の    峰は希望の朝ぼらけ

   みんなの笑顔美しく    光る言葉に呼びかける

二、清く流れるせせらぎに   声はずませて遊ぶとき

   みんなの歌はほがらかに  響く瀬音に呼びかける

三、長い歴史を育んで     遠く伝わる三ツ獅子に

   みんなの夢はたくましく  輝く未来に呼びかける

涙しながら歌ったものだ。今、書いている最中にも頬をつたわつものがある。苦労して、苦労して、ここまで来たんだという万感の思いが子供心に感じ取っていたのだろう。この栗生沢小学校として独立した際の学童在籍数は全校で104人と記憶している。今は残念ながら廃校となってしまった。

山田先生と平野先生が、毎日毎日黒板に詩を書いては消しての繰り返し。このとき知った詩の作り方、7・5調での言葉組み合わせというものを。

小学校1・2・3年間は村中央にある分校で複式学級。今のバス駐車場だ。木造2階建校舎。冬になると雪が深くなるため先生方は村に分宿。私の家では毎年2人の先生が宿泊していた。本当に雪が深かくて家の軒先まで積もるのだ。およそ2m位となるのかな。暖房は薪ストーブ。お昼の弁当をこれで暖めるのだが4時間目の授業となると弁当に入っているタクアンの匂いで教室が充満する。冬の食料はタクアンと梅干しのみ、どの家も貧しかったのだ。こうして長い冬を越していた。春が本当に待ち遠しかった。

3年生の時になると、いよいよ新校舎の建築が始まり、建築造成中の新校舎をよく写生に行ったものだ。4年生の時、引っ越し。しかし校舎の落成はなったものの校庭ができていない。予算が無いという。それからの1年間は、全校生で校庭整備、石拾いに費やされた。校庭を周囲する丘は、この時拾われた石が集積されてできたもの、5年生の時、やっと使用に耐えられるようになった。あわせて脱脂粉乳のミルクが給食され栄養補給が成されるようになってきたのだ。そして、この年が田島小学校での最後の卒業式となる。栗生沢分校在校生の代表として私が田島小学校までツギハギの服を着て、恥ずかしい想いをしながら出席したから良く覚えている。特に私の家も貧しかったのだ。一人で初めて村を出た日、それは田島町は都会だったのだ。今となっては嘘のような話だね

6年生になると村にもTVが普及しだし、私の文明開化が一気に訪れる。そして晴れて栗生沢小学校独立第1回卒業式を迎えたのであった。。

ぶらり帰省

11月4日あまりにも天気が良くて爽快な秋空が、お袋とのドライブを誘った。仕事を中止して、お昼頃、出発。塩原を抜けたあたりから車のバーッテリーに異変が、走行には別段影響がないだろうとそのまま故郷路へ、三依〜横山あたりにさしかかったところでアラーム音が、ヤバイと思いながらも、そのまま走行。県境の山王トンネルでライトを付けた瞬間、アラーム音がけたたましく鳴り出した。アクセルを踏んでも出力が弱い。たまたま下り道だったか良かったもの、そのまま道まかせに走行、トンネルを無事抜けてライトを消したが、すでにエンジン出力は無くなっていた。しばらくその状態で道の駅まで、さすがにここで走行を止めようと思いハンドルを道の駅に切ったとたんエンジン停止。しかし慣性でそのまま駐車場へ無事駐車。「まぁ、こんなこともあろうよ」ってな感じでそこで一服。周囲を見ると紺碧の青空と雄大な紅葉に圧倒され、感激。一杯の蕎麦を食べ、タクシーを呼んで栗生沢の実家へ。誰もいない。迎えは夜になるみたいだから今日はゆっくり村を散策しようと、「せっかく」を有意義に味わった。村の中を歩くも人っ子一人見受けられない。ただシーンと静まりかえっている。稲刈りも終わり、ただ冬の到来を待つだけの深まりゆく秋のつかの間。聞こえるのは「シーン」という音だけ。本当にシーンという音はあるんだなぁと実感する。一通り村を回りながら、少々風情の変わったところを見て過去の幼少年期を懐古する。自分だけの持つ特別な想いに郷里愛がひたされる。家に戻るとお袋が畑仕事から帰っていた。畑の土手に座りながら長話。これがまた良い。お袋独特のイントネーションと言い回しに気持ちが安らぎ癒される。もっともこの噺調子で育ったのだから当たり前か。夜、兄貴が帰宅。久しぶりの兄弟話しに花が咲いたものだ。今年一番の幸福なひとときだったような日でした。車の故障に感謝です。

 

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