2013年07月18日

毎年、神社に飾られる垂れ幕の歴史をひもとく垂れ幕B

垂れ幕の左側にボロボロになりながらも今もって大切に飾られる垂れ幕の奉納者、読んでみよう。

明治34年(西暦1901年)辛丑(しんちゅう)6月12日
*干支の意味で60年ごとに、次回は西暦2021年になる。
明治34年生まれは、今生きているとすれば112才。この年は昭和天皇が生まれた年、翌年には日英同盟が結ばれ、翌々年には日清戦争が勃発した。そんな年です。

湯田留次

神社入り口の左側、中村屋さんの隣(近年自宅全焼)湯田徳衛門、おきよ、湯田利男の先祖。屋号?

同 市作

タバコ屋の3軒手前、湯田太一郎、湯田良子の先祖。屋号「太田屋」

同 寅吉


湯田盛、湯田盛吉、屋号?

同 新作

なんと私のご先祖様だった!湯田一吉、湯田孝芳。屋号「橋本屋」

左三つ巴(神社)

このマーク(紋)は、水を表し「防火」のまじない紋として、神社仏閣の瓦等に多く利用されている物。
火伏せ信仰の象徴なのだ。

角立ち四つ目
3955840[1]
そして、これが部落の紋所「角立ち四つ目」と呼ばれている湯田家の家紋です。斜めに細く十字架を隠しながら、この紋所の意味する「団結」を表している。



(お願い)
私が書き綴るこのブログで、間違っているもの、または私が知らなかった物などが、有りましたら、教えて下さい。栗生沢を後にして45年がたち、遠隔地でしかも、乏しい資料の中、がんばって書き上げていることを考慮して頂き、間違い、訂正は大歓迎でお受けいたします。 湯田孝次







yudakoji28 at 11:00コメント(9)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事栗生沢の村行事・祭 

2013年06月17日

国立劇場<2013>平成25年6月8日(土)この日は晴れ舞台、東京のど真ん中。皇居半蔵門にある国立劇場でのお披露め。赤煉瓦に新装となった東京駅からタクシーで、午後1時ちょっと前。国立劇場着は午後1時ちょっと過ぎ。待ち合わせていた赤坂のママさん(内野信子)と川崎からの従弟(湯田政行)と再会。「どうせ、閑古鳥だろう」と思っていただけにチケット売り場での座席状況をみると満員。凄い!!びっくり!!たまげた!
それでも、かろうじて席を確保。館内入るとモニターTVでは檜枝岐歌舞伎が上映中、30分後には栗生沢の三つ獅子が始まる。それでは一服と思いや外も内も禁煙。遠望のきく外には遙かかなたに2帖ほどに密閉された建物があるだけ。めんどうなので、我慢して会場に入った。

東日本大震災復興支援事業;福島県の民俗芸能
定刻に上演開始。開場がシーンと静まりかえるなか、湯田研一くんの見事な開始を告げる大太鼓が会場に響き渡る。堂々とした太鼓に観客が度肝を抜かれた。席の後ろから高提灯を先頭に笛の音とともに栗生沢三つ獅子一座が入場。(一瞬だけでもとカメラを向けた・・・・・・・と、その時、すかさず警備員から中止の警告が・・・・・・・・。ウーン、奴等は慣れ過ぎている。写真撮影は断念した。よって、今回は記憶による文章だけでのドキュメントになってしまった。)壇上には栗生沢の大山神社そっくりのモニュメントが作られており、神々しさが醸し出されていた。庭入りの舞から始まり、歌が入り、四方固めの舞へと、しかし上演者全員コチコチ、カチカチ、顔が強ばっていた。間違わないように、間違わないようにという思いが強いのか、いつもの流れが無い。そんなところが又、初々しくて、嬉しかった。細かいところまで、しっかりと演舞できていたのは稽古のたまもの、「大切にしてきたんだよ」っという無言メッセージは伝わった。
山が入り、ようやく流れが出てきた。おかめ役とひょっとこ役が、当初から、しきりとササラを鳴らしていたが、その意味もこの段階で伝わり始め、ついにササラとともに観客は拍手・声援を送ることが出来るようになった。そうなんです。おかめとひょっとこは応援団、盛り上げ役、演舞指南役なの、だったのです。観客も、リラックスし楽しみだしたところにクライマックス「巻き寄せ」の舞、力強く、単純明快なその舞に観客は魅了された。そして終演を告げる大太鼓の連打たきに会場全体に拍手喝采が鳴り響く。大成功!!演舞時間は15分余り。よくぞ編集したものだ。最後は全員ステージ上に集まり、特に獅子頭を脱いだその時に凄いというつぶやきと共に、ため息があちこちからでていた。湯田良隆の締めの言葉には伝承継続の厳しさ故の村の絆を感じさせてくれた。本当にご苦労様でした。写真は、演舞終了後館内での記念撮影風景。赤ずきんは湯田哲治君。出演者名は割愛です。


yudakoji28 at 11:07コメント(3)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2013年04月15日

平成25年6月8日(土)午後2時00分
栗生沢の「三ッ獅子」が国立劇場に進出!!

国立劇場大
 吉報がもたらされた。
奥会津の秘境地;栗生沢に震災復興支援の
民俗芸能公演の依頼が入ってきた。
それも、東京のド真ん中、皇居の半蔵門に
ある国立劇場でだ。

国立劇場小




あの勇壮華麗な舞を、あのステージで披露できるのだ。超うれしい!
関東に在住しているfrom 栗生沢、「全員集合!」 
そして、故郷を支援する同村会ができれば、最高だね。

<座席>全席指定席
<料金>入場料 大人3,000円
<問合>国立劇場チケットセンター 03-3230-3000
<交通>地下鉄半蔵門駅下車徒歩5〜8分

SISIMAI














これは、パンフレットから抜き出したものです。
当日の演舞は、後庭の舞だから、期待感わくわく。
そして、翌日9日は村の本祭り、関係者は、超忙し。
今、村ではけいこ猛特訓中とか。

touhokunogeinou3-omote[1]



yudakoji28 at 23:11コメント(3)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2013年04月09日


栗生沢村の墓にある墓標「官軍の墓」にプレートを作ってみた。
過去の出来事を正式に未来に残すため寄贈しようと思う。
   湯田旭さん管理の墓
官軍墓
「会津戊辰戦争百話」「会津戦争全史」に
栗生沢での戦いの詳細が記載されている。



プレート墓

当時の田島には新撰組の「土方歳三」と会津藩の御家老「山川大蔵」の会津藩最強精鋭部隊が守備していた。藩の大方の予想は、官軍は日光口を突破して進入してくるだろうと予想していたが、お城の急変を聴くに及んで、急ぎお城に戻った。有名な彼岸獅子の出で立ちで入城していった。

田島慈恩寺(役場近隣)の合葬墓に彼の名が刻まれている。襲撃した村人、宇平、佐吉、仲吉、百太郎の4人は英雄(ヒーロー)だったが、一ヶ月後には賊となってしまった。山本他人輔は芸州藩の隊長だったのだ。

yudakoji28 at 13:38コメント(6)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2013年03月21日

孝次少年時代貴重な写真が出てきたので記録しておきたい。15歳の時に村を出て行ってしまったので、今となっては、この一枚だけ。
お袋が持ってきてくれた。
<家族・兄弟>
 湯田一吉とカツヨとの間に昭和28年10月16日に生を受ける。兄弟は、幸子(長女)操(次女)孝芳(長男)孝次(次男)吉則(三男)の5人兄弟で下から2番目。
血液AB型。
<少年期>
少年時代は「ど・も・り」だったため、ナーバスだった。しかし、歌は大好き。小遣いが欲しくなると各戸へ「はいっと!」といって、庭先で歌を歌っては小遣いをせしめたものだ。まだ、テレビは無く、ラジオで覚えた「赤銅鈴の助」と「月光仮面を」歌っていた。写真は小学3年生の時、後ろはタバコ屋さん、手前は神社の川にかかる橋です。ついでにその時の通信簿を載せてみました。漢字とかけっこが少々苦手。
<家計>
父、一吉は、片足のため就労ができず、母、カツヨの女手一つで極貧の中で育てられた。故にこの時期体重は20kg、小学卒業時に、ようやく28kgまでになった。骨川筋衛門(ほねかわ、すじえもん)というあだ名も頂戴していた。
成績表

yudakoji28 at 17:51コメント(2)トラックバック(0)湯田孝次のお家事情湯田孝次の少年期 

2012年09月27日


写真をクリックすると動画が始まるよ

yudakoji28 at 17:50コメント(9)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2012年08月29日

実に27年ぶりとなったお盆帰省。お祭りとお彼岸は時々ではあったが、しかし日帰りだったので、ゆったりとは村風情は見て取れなかった。今回は2泊3日の帰省だ。

8月13日(月)
  明日の早朝に、墓参りがあるので、その前日から入村。実家の兄夫婦とお袋に挨拶をし、早速に哲治くんの自宅へ。今年から急接近だ。留守だったのでアスパラガス畑まで彼を探しに行くと全身汗だくとなりながら採集している彼がいた。彼は子供の頃から働き者なのだ。畑から彼を拉致し食卓へ。ゼンマイ3皿とイワナ5匹で夕食の腹を満たした後、お袋と兄の待つ実家へ、兄の長男と姉の次男も交えて深夜まで酒を酌み交わした一夜となった。
アスパラ採集
8月14日(火)
朝から小雨模様。雨脚の弱くなるのを待って墓参り。時刻は朝の8時。この地区独特の早朝からの墓参りなのだ。どの墓標、墓石を見ても、湯田、湯田、湯田、湯田。垣間に、相原の文字が見える。お墓の久方ぶりの静寂感と線香の匂いに、感無量。ウーン good です。俺が知っている村人の、おおよそ半数が墓の下。心の中で「南無阿弥陀仏」と唱えながらあいさつがわりの合掌。ひととおり、お参りがすんで帰宅。

 午後は村の中の旧家めぐり。昔と変わらぬ家々を写真に納めた。次に3例の写真を披露するが、誰の家か「わかった!」ら偉い。兄に尋ねると今日までの村の状況は
藁葺家屋旧家1旧家2

廃家が8軒、空家10軒、1人住まいが9軒もあり、廃村に向かって確実に進んでいると言う。農業で生計が立てられなくなってしまった今日、後継者は無く、若者は村を捨て、残るは老人、高齢者ばかり。仕方が無いか。

8月15日(水)
朝10時、太鼓の音で、この村自慢の「三匹獅子」が村の広場で披露される。村人と帰省した人達との懐かしさを埋めあう時空間だ。ここでちょっとした変化が。奉納する「獅子舞」が披露する「獅子舞」になっていた。見る人を大切にしようとする意図を感じる。嬉しい限りだ。ご祝儀で、その心意気に応え感謝の意を表してきた。
がんばれ!!村に残った貴重な若者たちよ。
獅子舞
午後は河原に行って魚取り、夜は、盆踊りと思っていたが、but
河原では蜂に刺され、病院へ、夜は盆踊りが無い。
トホホホで、一日繰り上げ、この夜、村を後にした。










yudakoji28 at 10:48コメント(3)トラックバック(0)栗生沢帰省 

2012年06月07日

昨年度のお祭りでは、「巻き寄せ」の動画をアップ。結構なアクセスがあった。
今年は正調「栗生沢の三つ獅子」を撮影、説明つきで アップしますから楽しみにしていてください。

今年は湯田哲治の長男、泰章くんと急接近!!
ウド、白木の芽、タラの芽、グリーンアスパラ、紫アスパラ
ワラビ、アサツキと、しっかり、いっぱい食することができた。
有りがたかった。

こちら栃木の那須地区は、放射能汚染がひどく、山菜ものは一切採集できず。
春の好物「山菜」が食べられず、飢えていただけに超嬉しかった。

今後、このブログを通して通販ができるといいね、ただいま準備中です。
彼とよく相談して、事を進めたい。



yudakoji28 at 14:35コメント(1)トラックバック(0)栗生沢帰省栗生沢の村行事・祭 

2012年03月02日

 栃木の板室温泉から那須高原に抜ける道沿いに会津中街道の跡を示すかのように道標碑が建っていた。
「右;会津街道、左;ゆもと道」と刻まれていて、これは元禄八年(1695年)に開設された会津中街道の道しるべとして天保七年(1836年)に建てられたもの。2mほどの高さがあって他には類を見ない立派な石碑だ。
これと同じものが田島と栗生沢の分岐点に建てられていたそうだ。左;三斗小屋、右;日光へと書いてあったかどうか、不詳だが、道標の石碑が有ったことは確かである。残念ながら建築資材として盗失したようだ。

(注釈)会津中街道とは、栗生沢を通って、三斗小屋経由で、板室へ抜け、関東に行く街道を指す。幕末から明治初期にかけて往来が活発だった。村中が、同じ湯田を名乗っていたため、この機に屋号でお互いを呼ぶようになった。(例、私の場合は、橋本屋なのだが、通称「はしっぱた」と呼ばれていた。)


025 

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美しき冬の栗生沢村(平成24年1月撮影)





yudakoji28 at 21:56コメント(4)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事栗生沢なんでも 

2012年02月17日

平成23年6月の動画だよ。巻き寄せと追い転ばしが録画されています。撮影は、湯田哲治。
本当は庭入りの舞から、四方固め、などなど、後世に残しておきたい動画が欲しいのだが。
いつも、ついつい三つ獅子の舞に夢中になり録画することを忘れてしまっている。感動することを
最優先してしまう私なのだ。そして、いつの日にか神社では後庭を常として舞って欲しいものだ(^∀^)
神社の境内は最高のSituationなのだ。It's nostalgia.


yudakoji28 at 08:03コメント(10)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2011年06月16日

11

とや山と滝沢山
 
学校からの下校の道すがら、仰いだ山々、正面は「とやま」と「たきざ」そして右手には「あせがち山」と、この3つの山が私を育んでくjれた。
 とやまの裾ではスキーを、たきざの河原ではイワナ取りを、そして、あせがちやまではワラビ取りをと。
 この写真の光景を幾百度、幾千度となく脳裏に刻み込んだものだ。眩いばかりの初夏のもと、耳をつんざく蝉の声、そして蛙の鳴き声、校庭から遊び疲れて足を引きずりながらの家路、そして吹雪の中での下校……。まさしく「うさぎ追いし あの山 こぶな釣りし かの
川 夢は 今も めぐりて」だな。
<平成23年6月>



yudakoji28 at 11:00コメント(8)トラックバック(0)栗生沢なんでも栗生沢帰省 

2011年05月17日


27
コゴミだぁ

  
ゼンマイと似ているけどゼンマイじゃないよ!。コゴミだよ。煮て良し、炒めて良し、揚げて良し、浸して良しの
山菜の王者だ。私は、これが一番好き。料理のバリエーションが豊富なのだ。

今回は特に、私のスペシャル料理法を伝授しよう。(コゴミだけは他人には料理させないのだ)
1.軽く熱湯で煮たあと、水で冷まし、包丁で2〜3センチ程度に切り刻む。
2.油で炒めながら醤油と、味醂と、ダシの元で味付けをする。
3.仕上げは、冷蔵庫で冷ましてから食する。よって次の日が食べ頃とするのだ。

美味いよ





yudakoji28 at 17:31コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の物産品(直販)栗生沢の物産 

2011年05月09日

35
白木の芽(コシアブラ)
栗生沢では、この「白木の芽」と「たらの芽」は、かつては食する習慣がなかった。木の芽を食べるという文化が無く、私が食べたり採ったりしていた山菜というとワラビ・ゼンマイ・ふき・コゴミ・ウド・シオデ・エラといったいわゆるシダ草食系ばかり。もっともそれらの量も多かったから木の芽まで食を伸ばす必要が無かったんだと思う。豊かな山の恵みのある山村だった。
 子供の頃、お袋は「栃木の人はいげやしから、こんなものまで喰うんだ」と卑下の言葉を聞いたものゆえ、貧しい人達の食する山菜というイメージ有り。 私が栃木(那須)に転居して、これらを食する人が多勢いて、「本当に、食べている人達がいるんだ!」とビックリしたものだ。しかし、山の幸、山の豊かさのシンボルでもある山菜はシダ系にそのステータスが有る、という意識は今でも私の頭の内に潜在している(笑い)。
 また山菜とは「お浸し」・「漬け物」・「味噌汁」・「煮物」での料理が定番なのに、これらを天ぷらで食するという。20数年前、初めて食したとき、その美味しさにビックリ。いまでは必ず天ぷらにして食する。むしろシダ系山菜より美味しいのだ。今では故郷「栗生沢」でも皆食べるようになってきたようだ。時期は5月のGWの後、1〜2週間の間が採取時期。
 

yudakoji28 at 10:25コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の物産品(直販)栗生沢の物産 

2011年04月28日

春が来たーーー!
    アサツキだーーー

11[1](写真は他より拝借)

毎年、春休みになると、残雪をかき出して、ひび割れした手で、よく採集したものだ。
春を告げる野草(ジャパニーズ・ハーブ)「アサツキ
今年も元気なお袋(89才)から、春の便りが届いた。それも段ボール一箱分。
一気に食してしまった。私は大食漢である。根の白いところに甘味があり、とても美味。
お浸しにして、水を片手に醤油とマヨネーズで、食する。腹一杯に、
んんんんんんnーーーーー幸せ!
寒さが白い部分を作るので、雪が降らない地域では、この白い部分が出来ない。
栃木の那須在住の私の所でさえ、スーーと緑色部分が伸びてしまうので食には余り適さない。
よって、雪国のみの産物である。
採集期は3月から4月です。
希望者は連絡を!!

yudakoji28 at 09:47コメント(5)トラックバック(0)栗生沢の物産品(直販)栗生沢の物産 

2011年02月26日

img-Y01214003-0001南会津町(田島)教育委員会発行の250ページからなる冊子だ。著者は石川純一郎さんだ、うれしいね〜。村出身者ならば必ず1冊は買い求めておくべし。自分のルーツ・古里の資料編だ。

 先祖は何故に、この地に住み着き、またどのような暮らしをしてきたのか等、想像がかき立てられ一気に読んでしまった。

ーーーーーーーーー

本文中で興味のあったところを自分の記憶で憶測してみた。
*親族呼称
ジーヤ、バーヤ、トーチャン、カーチャン、オンツァマ、オバサ、アンツァ、アネ、アネサ、
*親族名称
ゴテ、カカァ、セナ、シャデ、コメラ、バッチ
*人称=相手の呼称
(目上)オメー、オメラ、(目下)ニシ、ニシラ、
<会話例>
「ニシ、誰だ?」(あなた、誰?)
「オレ、孝次だ」(俺、孝次)
「なぁーんだ、孝次アンツァが」(なんだ、孝次兄か)
「ところで、オンツァマは今何やってるんだ?」(ところで、おじさんは今何してる?)
「オンツァマ?あぁジーヤのことか」(おじさん?あぁ爺さんのことか」
という感じです。

栗生沢の代表的な方言には以下のものが有ります。
◎ ニシ(おまえ、あなた)   ハイット(ごめんください)
ジャンボくった(葬式になった) カビダレモチ(川で転ぶこと)  コイ(疲れた)  ケロ(頂戴) 

<生活編>
 山の幸に恵まれていたようだ。畑は女に任せ、男は山仕事が主。水田が始まったのは用水を村の中に引いた明治23年から。
炭焼きと狩猟が盛んで、特に熊ブチは有名だったらしい。そういえば子供の頃、田島町にでると、よく「栗生沢の熊」と馬鹿にされたものだった。それが何故だったのか、この本を読んで納得。そうだったんだ。

 熊撃ちをしていたのは湯田茂、湯田友治、湯田元、湯田喜志、湯田清八とある。湯田元は私の祖父(じーや)で明治の人だ。そう言えば実家には火縄銃と熊用の槍2丁が有った。鹿の角で飾ってあったから良く覚えている。

 熊の猟法は、その祖父(じーや)から「冬、熊(シシ)が寝でいる穴の入口を太い棒で横に遮ったあと、棒で穴を突っつくんだ。そうすっと熊が起きてでてくんだげんじょ、入り口に横棒があるから棒をたぐって仁王立ちとなっちまうんだ。その時、この槍で月の輪をめがけて刺し、仕留めるんだ」と、こんなかんじで聞いていた。「おっかなぐねぃのが?」と聞くと「おっかねぃ、よりも面白い」と話してくれたものだ。

 冬の動物性タンパク質はこの熊肉で補給。熊肉の食感は、堅く、噛み切れず、油が多く、そして臭いのだ。この臭いのため犬は唸るだけで食べない。熊の胆は高価、一個、当時6万円で売り買いされていた記憶がある。今の金額で換算すると50〜60万円相当額だ。冬の貴重な現金収入、皆で山分けしていたようだ。


yudakoji28 at 08:57コメント(1)トラックバック(0)栗生沢なんでも栗生沢の歴史出来事 

2011年02月08日

村の起源は、依然不詳。だが発祥形態は、おおよそ、つかめた。以下の図が、それらの形態図。
会津中街道が江戸への街道として使用されていたとき、同じ湯田性を家ごとに区別するために使用された屋号だ。空白の家の屋号が分からない。誰か知っている人がいたら連絡が欲しい。

img-Z16153757-0001



yudakoji28 at 09:39コメント(17)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2010年12月16日

2010年平成22年に「我が偉大なる母、カツヨ」の米寿祝いを挙行した。

 大正15年5月19日、湯田繁義、リノの長女として栗生沢で生を受け、栗生沢育ち、20才で湯田一吉と結婚。34歳の時、一吉が片足切断という事故に遭い、以後、身障者を抱え、女手一つで3男2女を育てあげるという艱難辛苦の「極貧人生」ど真ん中を生き抜いて生きた強者
私は、そんな環境で育った上から4番目の息子です。
img-Z16162635-0001

yudakoji28 at 16:47コメント(8)トラックバック(0)湯田孝次のお家事情 

2010年10月12日

やっと、やっと、というか、ついにGoogle map に栗生沢が出た。
待望の空中写真だ。故郷の家は!畑は!田んぼは!山は!
これまた懐かしく、想いが、ノスタルジー。
一軒一軒の家の名前が言えたら、記憶はまだ健在なり。img-X08133148-0001    

yudakoji28 at 15:38コメント(0)トラックバック(0)栗生沢なんでも 

2010年09月24日

尻上がりの独特な獅子笛の音は、故郷「栗生沢」の音そのものだ。この動画を見て、懐かしくて涙する者もいるだろう。懐かしき顔ぶれ、名前が出るかな?


続きを読む

yudakoji28 at 18:08コメント(4)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2010年06月14日

決め2!昨年に続き、2度目の三ツ獅子見学。完成度が高く、熟練された舞に仕上がっていた。昨年は久方の舞に感動し、今回は完成度の高さに感動。まさに芸能の域に達していた。歌舞伎要素で言う、舞う間の取り方、手足の切れリズムに数段と丁寧さが加味され、上手い。!(^^)!
その上達ぶりに、うれしさ倍増!感謝!感謝!の連続。故郷を守る意気の高さに、その素晴らしい心に「ありがとう」の言葉しか出ない。感無量とはこのことだ。
!栗生沢!
!三ツ獅子!
また、獅子舞はなんと言っても神社の背景とマッチして絵になるのだ。なぜなら村で昔から不変なのはこの境内だけだからだ。

入場時の舞「岡崎」「怒りの舞」「庭総見」など⇒地固めの舞。大夫獅子と雄獅子が交互に舞を競い合う。
怒りの庭四方堅め










雌獅子と大夫獅子との密会⇒大夫獅子と雄獅子の対峙⇒勝敗を決す。
でーと対面熱闘






「ごめんなさい」の謝り⇒仲直り巻寄せ    <遺伝子は後世に脈々と>
あやまりなかなおり遺伝子達






獅子頭が重いため、このような装備で舞っていました。精悍な演舞ヒーロー達の名前は
左から 相原盛和   湯田善吉  湯田健一 でした。 
たいゆじしめじしおじし







昨年秋の動画だよ 



yudakoji28 at 18:32コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2010年06月06日

「村おこし事業」をこのブログで準備中!
第一段の発表!!
以下の写真のごとく只今7月中旬に出荷できるよう育成中。
奥会津高原ゆえに太くて柔らかいアスパラです。宅急便にて産地直送が可能です。ミネラルを多く含んだ自然食品の数々を次々と発表していきますのでご期待ください。
アスパラ畑


yudakoji28 at 16:59コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の物産品(直販) 

2010年05月21日

神社鳥居我が愛すべき村「栗生沢」。今年(平成22年)のお祭りは6月13日(日)だ。
※例年6月の第2日曜日となっているらしい。

前日が前夜祭となっていたのだが、かつてのように夜、神社に拝殿し酒を酌み交わしながら獅子舞を舞うということは無く、当番の者が数名神社に上がり神主からお祓いを受けて終わり、帰宅するそうだ。

お祭り当日は朝9時に村人の主達総員が神社に上がり、五穀豊穣を主とした詔を神主から祓い清め頂いて一連の儀式を済ませると、10時からいよいよ三匹獅子が登場・演舞となる。見たい人は朝10時までに村の神社まで詣でてください。
午前中に演舞の前庭が神社に奉納されると、
午後1時からは、クライマックスとなる後庭が
お党家の庭で演じられる。今年は村の駐車場にて上演される。(馬車屋の前)
あやまり
雨が降らなければ良いが…………。

懐古と出会い だ  


yudakoji28 at 12:06コメント(0)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭 

2009年09月29日

朝6時出発。今日はどうして会津まつり1も、なんとしても、見たかった会津祭り。娘二人と孫一人を連れて、会津若松へ。
早かったため城内の駐車場へ駐車することができた。NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝役とその妻役の2人が来るというせいも有ってか城内は、人垣で一杯。頭の中が「天地人」埋まっていただけに、チョットとまどいが
…。
会津は幕末の悲劇が永遠と観光の基盤なんだと再認識させられた。

「新撰組」と「白虎隊」そして「娘子隊」

豪華絢爛の武者行列を見た後、久しぶりに武家屋敷へと足を運ぶ、西郷家老宅だ。「でかい」。

おふくろと墓
午後2時に会津若松を後にして、母の待つ実家南会津町栗生沢へと車を走らせる。途中、お墓にあげる花と線香を買い3時半ごろ実家に到着。
 お袋と一緒に写真を撮る。
湯田カツヨ(87才)、いたって元気。今はやりの認知症の気配など、全く無し。頭は明晰、至って元気。この村生まれでこの村育ち、この村が世界の中心であり世の常識の中枢と思っている。お袋の話は、このブログの大切な題材。歌はオンチで歌わないが白虎隊の唄は、しっかり音程を守って歌うことができる。50年ぶりに聞いた「♪アラレのごとく乱れ飛ぶ、敵の弾丸〜♪」と、私が5歳の時に母から聞き覚えた唄だ。親父からは詩吟を習い、お袋からは唄を習った。それ故、会津の唄は、50年経った今でも、鮮明に歌うことができる。夕方5時、実家を後にする、故郷をハミングしながら。



yudakoji28 at 09:19コメント(2)トラックバック(0)湯田孝次のお家事情 

2009年06月15日

唄笛小雨煙る梅雨時の6月14日(第2日曜日)行って来ました久しぶりの栗生沢のお祭り。

到着がちょうどお昼時、昨夜と午前中は神社にて奉納の舞があり、たいこ午後からは、お党屋番の家で後庭の舞が披露された。

10数年ぶりの獅子舞に感極まっってしまった。

     皆 元気だ!    

 過疎化の四方堅め村、高齢の村、にもかかわらず、「皆、元気」一杯!、もう、これだけでも充分。三匹獅子も数人の若者がしっかりと後継し伝承していた。

しかも30年ぶりに「巻寄せ」が復活。舞に激しさが加わった。スクワットが中心となった舞だけに、相当の体力が要求される。昔の人の体力に驚愕、今となっては大変な舞だ。

 ゼー、ゼーあやまり、ハァ、ハァ、に見てまきよせいる人の笑みがこぼれる。至福の時だ。伝統が息吹いていた。簡略もされずに、しかも古舞まで復活とは、「この村出身で良かった」と誇りに思えた瞬間、村人達に感謝、感謝、だ。

笛の清さん70才、息が続かず、短く切りながらの笛の音、昔は力強い音だったのにネ。良隆さんの舞は、もう見れない。哲治に至っては、世話役になっていた。真新しい黄色のタスキを掛けデビューしたあの初々しい舞は、つい、昨日のように脳裏に浮かぶ。皆、年老いてしまった。それでも一徹とした頑固さが健在だったのには、嬉しかった。そろい踏み

 村人に親しまれ愛され長く伝わってきた三匹獅子、三ツ獅子、

         永遠なれ!

神社鳥居

神社本殿

 

 

 

http://peevee.tv/videolist.jspx/method/local/maxperpage/10/page/0/tag/%E6%A0%97%E7%94%9F%E6%B2%A2%E3%81%AE%E4%B8%89%E3%83%83%E3%83%84%E7%8D%85%E5%AD%90 ←動画も見れるよ!

      http://www.interq.or.jp/leo/f2000/

 



yudakoji28 at 14:01コメント(12)トラックバック(0)栗生沢の三ツ獅子 

2009年05月18日

  キリシタンの隠れ村里「栗生沢」。その資料となるべく「転切支丹類族書上帳」、それに今にも残る慣習の数々。

「キリシタン」(=切支丹)の別な呼び名「クリスチャン」からの由来で、「クリス」の漢字表記には栗栖、栗須、栗巣等があり、栗生は、その「クリス」から派生した言葉。

 これほどまでにキリスト教への信仰が強く深かった栗生沢。しかし私の知るところでは現在の信者は皆無。その流れも欠片もなく、絶滅状態。ただお彼岸の行事が無いという慣習が残っているだけ。田島町では今でも結構キリスト教は広く伝わり、教会やら幼稚園やらと有るのだがね。

そういえば先祖への供養としてのお墓参りは、年に一回、お盆の時だけ、しかも午前中に行っていた。供養物はお茶、団子、線香、お花などだが、不思議なことに、お墓の前で腰をかがめ手を合掌して拝むということをしない。持ってきた供養物をお墓に沿えて巡るだけなのだ。とても粗雑なお墓参りなのだが村人全体が同様なので、子供の時から、お墓参りとは、そんなものと思っていた。

 

 またまた次期への抱負となってしまうのだが、村にまつわる資料の全部を現代語訳した上で記録、掲載してみたいものだ。これはきっと私が70才を過ぎた頃の作業となってしまうような感がする。膨大な時間がかかるから、だから。。「いつの日にか」ってネ。



yudakoji28 at 18:06コメント(4)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

自宅欄干

2階の手摺に刻まれている屋号、旅籠としての名前か?、神社の前の6〜7軒ほどには次の名前が残っている。

中村屋橋本屋加登屋、越後屋、若松屋、大黒白木屋等々だ。

写真は私の実家の写真。龍の頭3個の上に右に漢字、左に大和仮名で「はしもとや」と刻銘されている。

古よりの記録が新築、増築で消えていくなか、貴重なもの、大切に残していきたいものだ。

 



yudakoji28 at 17:35コメント(493)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 
官軍墓 

5月のGWに帰省。早速お墓を散策。いくら探しても見つからない。するとお袋が「何を探しているの?」と聞いてきた。事情を説明すると、依然、お墓の廃合整理するさい、無縁仏にもかかわらず湯田旭さんが「かわいそうだから」と自分の墓地に移動、手作りながら写真にある墓票を立てたそうだ。
墓標に名前は無く、ただ「官軍の墓」とだけ記銘してあった。でも気持ちが嬉しいね。この機会に覚えておこう
 その人の名は西軍の田島方面軍の将であった芸州藩外様歩行横目組「山本他人輔」。の人だ。慈恩寺境内には「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がある。また広島県にある芸州藩籍名簿にも彼の名前が乗っている。没年は慶応4年(1868)9月14日。殺ったのは(手柄をあげたのは?)湯田仲吉、湯田百太郎他村人数人。誰のどの家のご先祖かな?



yudakoji28 at 16:57コメント(536)トラックバック(0)栗生沢の歴史出来事 

2009年04月06日

簡略化が進む葬式は年々画一化しているが、田島地方では、喪主は依然、かみしも・はかまを着用している。数年前までは額に白の三角紙をつけていたのだが…。そうそう、このへんでは葬式のことを「ジャンボ」と呼ぶんだ。今回は兄嫁の父親のジャンボだった。享年88才

ニッカン(納棺)は、生豆腐を食し、死者には手甲、脚絆、杖、六文銭(60円)、頭蛇袋を、左前に白の着物を着せるという習慣は、今回は立ち会えなかったがおそらく、今でも行われているはず。考え方として葬式は縁起をかつぐため在来のしきたりに目立つ変化はあまり好まれないからだ。

告別式には、チョット戸惑ってしまった。参列者には「きかせ」と「ひら」があり、受付で「きかせ」は名前が掲示されていた。自分の名前を見つけ「きかせ」ですと言い香典を出す。すぐに親族が待つ式場へ、式の始まる前に線香をあげ親族へ弔の挨拶をする。いったん式場を出て、しばらく式が始まるまで外で待つ。この間旧来、遠来の親交が葬式で引き合わされ、しばしの談笑タイム。式の始まりは、死者との近い順から名前を呼ばれ、順々に着席していくというもの。一通り縁者の着席が終えると、後は順不同に入場、着席し、式が開始された。

4月3日、依然、奥会津は雪景色、山並みの稜線は灰色で描かれモノトーンの世界。だが、春は間近に感じる。

※死後の世界は、「無いより有ったほうがいい、なぜなら、その方が都合がいいし、気持ちも癒されるから」と考えている。自分の感ずるままに。



yudakoji28 at 10:56コメント(542)トラックバック(0)栗生沢帰省 

2008年12月12日

正月14日頃だったと思うが、夕方からツチンボ(わら打ちの棒)に縄を付けて家の周囲を引いて回った記憶がある。お袋から、これをすると畑に害虫である長虫と蛇が来なくなるという。

「ツチンボのお通りだ、長虫くんなよ、山の神ござれ」と繰り返し歌いながら、夕方の縛れるような寒さだけを強烈に覚えている。このツチンボで地面を叩くと蛇が出なくなると言われ、かじかんだ手でツチンボを持ち地面を叩きながら家の周りを歩いたものだ。あれは何だったんだろうと、そして子供の次男の俺が何故?と。辛くイヤな行事だったが家のことを思うと願いを込めながら必死になって歌いながらツチンボのお通りを行っていた。他の家でもやっていたのだろうか?、それとも我が家だけだったのだろうか?



yudakoji28 at 11:40コメント(11)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭 

2008年12月05日

水無川の上流にある栗生沢村。なぜか5月5日の端午の節句に鯉のぼりを揚げないのだ。水もこの日は飲んではダメという。このいわれは、いにしえよりの習慣だ。鯉のぼりは田島町にある中学校へ通うようになって初めて目にしたものだ。

 亡き父親からの話によると、この日に田島のほうで歓声があがり、これを援軍だと思ってのぼりを揚げたが、実は官軍だった。この官軍に気づかれ押し攻められた故、会津軍は山中に逃げ込み上流から毒を川に流したそうな。。。それゆえ、鯉のぼりをあげることと、この日は水を飲むことが禁止という、この慣わしが今日まで残っているのだという。

確かに戊辰戦争における栗生沢の戦いの記録はある。(記録「会津戊辰戦争百話第七十一話」より)。ただし、期日は9月10日、これは今日の10月10日にあたるので、話とは時期が合わない。

他村の「鯉のぼりを揚げない村・地域」を探る。

福島県南会津町栗生沢村以外では、栃木県の湯西川村、埼玉県の神泉村がある。栃木の湯西川では似たような話で「平家落人伝説」として今に残っており、また埼玉の神泉村でも似たような話で「平将門伝説」が有り、ともに今日でも鯉のぼりを揚げない習慣を今に残している。栗生沢、湯西川、神泉の3カ所では、鯉のぼりは「不吉」を呼ぶという慣わしを抱えているのだ。この3村の共通点は何か。ただ言えることは、ともに平家に関する流れを持っていること。栗生沢も先祖は平家落人の可能性が高いと言うことだろうか。火の無いところに煙は立たないとも言うので、その可能性はとても高い。ただ伝説ゆえ、それらを正す根拠がない。



yudakoji28 at 08:21コメント(1)トラックバック(0)栗生沢の村行事・祭 
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栗生沢 三匹獅子(三ツ獅子)前庭の舞
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